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分別と無分別について教えて下さい

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分別と無分別について詳しく教えて下さい


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

分別も分別無しの分別は分別ながらに分別で無し

始めに冗談を言います。
「燃えるゴミの日に燃えないゴミを混入させて一緒にしてしまうこと、それが分別と無分別です。」
⇒「そりゃ、ゴミの分別(ぶんべつ)じゃ。ワシのイイタイのは仏教の分別(ふんべつ)智と無分別智のことぢゃ。」
失礼しました。(笑)
仏教、とくに禅仏教では、分別知は悟り、正覚に到るための障害となるもの、妨げとなるものとされています。
人知、知識で隔てた分別的、情報的に物事を観る姿勢は、世界や物事を主観的判断、私的見解などを中心としたものの見方になるからです。
そうなると人間的な善し悪しや都合の良い悪いなどが生まれるからです。
たとえば、手の形でチョキをすると、二にもなり、ピースサインにもなり、Vサインにもなります。
それが分別として物事を観た様子です。じゃんけんではグーに負けますが、ピース(平和)は、戦争や邪悪な心に打ち克ちます。が、Vサインなどの勝敗も生まれます。

無分別とは、それをそのもののままにみている状態です。比較も勝敗も優劣も無い様子です。
この私の回答に良いも悪いも、気に入るも気にイランなどの判断を起こす以前の、無判別、無評価。あなたの善し悪しをつける以前の様子、本来の消息という事です。
道元様の表現で言えば、思量が分別的であるのに対し、無分別の悟り状態、ほとけ状態を❝非思量❞といいます。

かといって人間の普段の生活では分別的なものの見方も重要になります。
でなければ赤信号、青信号も私の回答も機能しなくなるからです。
分別はイケないということではないのです。
仏道の修行を成就、完成させるまでは分別というはからいを(修行中は)用いてはいけない、ということであって普段の生活では大いに用いられるべきものです。
ゆえに分別心は、それが分別(善し悪し、善悪、是非)を起こしてないときの分別であれば、分別心でありながらも、純粋な無分別の心のものなのです。
本人が邪魔にならなければ決して悪いものではありません。
ですが、分別心だけでは、理に適うというだけであって、それは悟りではないというだけのことです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

分別と無分別について

zensyu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もう六年以上前のかなり中途半端で恥ずかしい内容ですが、拙論「仏教・空の理解」の第六章「無分別について・再考察」にて、「無分別」に関して扱わせて頂いております。

施本「仏教・空の理解」・第六章「無分別について・再考察」
http://oujyouin.com/sunya6.htm

この内容を記させて頂きましてから、「無分別」に関しましても更に学びを進めさせて頂いている次第ですが、現在における拙生の考え方につきまして以下に少し述べさせて頂きます。

まず、「分別知」と「無分別知」に関して、それぞれ二段階で考える必要があるかと存じております。

無明・煩悩による影響のある分別知(真実執着・真実把握・迷乱知・顛倒知など)
無明・煩悩による影響のない分別知(後得知・正理知・比量了解など)

顕現しているものに対する無分別知(後得知・正理知・比量了解など)
無顕現に対する無分別知(三昧・等引知・現量了解など)

分別知は、特に言説知・言説量によって把捉されたるモノ・コトとなり、無明・煩悩に犯された言説知・言説量と無明・煩悩に犯されていない言説知・言説量による二通り、無分別知は、顕現しているものと、顕現していないものの二通りを対象にしていると考えることができます。

拙理解仏教図式No.7(2014.6.14)
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f11483ea1a2eb35ce5dcda72284b2bfa

上記拙図において、無分別知は、この図における空性へと向かう知になるのではないかと考えております。

しかし、ここで注意しなければならないのは、「無分別知」=「悟り」という勘違いでございます。これは、よく一般的な仏教理解においても間違われてしまいますが、仏陀・如来となるまでは、善い分別と悪い分別、善い無分別(空性了解)と悪い無分別(悪取空など)があり、仏道においては、善い分別・無分別を慎重に選択して修行を進めていかなければならないのではないかというのが現時点における拙見解でございます。

制限字数の関係上、詳しくはここまでとなりますが、簡単には、分別・無分別を理解していく上において大切となるのが「空と縁起」の理解になるかと存じております。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

私の知恵と仏様の智慧です。

分別は私の知恵です。
無分別は仏様の智慧です。
だから「仏様は分別しないんだ」ぐらいしか理解できません。
仏になったら分かるものです。
私もそろそろ分かると思います。

ご一緒に仏になる道を聞かせて頂きましょう

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

川口英俊さん、回答どうもありがとうございました。

釈心誓さん、丹下 覚元さん
回答ありがとうございます

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