母が突然死しました。 数日前までとても元気に食事をし、健康診断も主治医から太鼓判を頂いたと喜んで報告してくれたので、しばらく信じられない気持ちでした。 きっと母自身も突然この世を去り驚いているだろうし、無念だったのではないかと気がかりでした。 母の死後、四十九日を待たずに地元で有名な霊能者の方にいろいろ視て頂きました。 信じる信じないは別として、ポッカリ空いた心を穴を埋めて欲しくて伺いました。 先生からの第一声が、母の生き方が素晴らしいとの事でした。 確かに母は誰にでも平等で優しく、穏やかな人でした。 しかし苦労が絶えず、娘の私から見ても果たして幸せな人生だったのか、そして誰にも看取られる事なく逝ってしまった最後が悲しすぎて後悔ばかりしておりました。 しかし、母は四十九日を待たずに天界へ登っているとの事でした。 すでに成仏しているとの事です。 例えて言うなら普通の方が徒歩で一歩ずつ天界へ登る所を、母はエレベーターで上がっていったようだとの事です。 今は6年前に亡くなった父よりも少し高い場所にいるとの事でした。 仏教は詳しくありませんが、人は亡くなってから四十九日間をかけて世話になった方等に挨拶周りをしてあの世への旅立つと祖母から教えてもらいました。 霊能者を疑ってるわけではありません。 それがでたらめでも心が救われたのは事実です。 そのまま胸に止めて生きていこうと思いましたが、ふとお坊様ならどうおっしゃるのだろうと気になりましたので質問させて頂きたいのです。 生前の生き方と言うのは成仏の仕方にも影響があるのでしょうか? 悪事を行えば地獄、良い行いをすれば天国。 それは子供の頃から頭の片隅に何となくありましたが、天国への上がり方にも生き方は反映するのでしょうか? 心が清らかな母だからそうなれたのでしょうか? そんな事って本当にあり得る事なのでしょうか? 母は悲しい最後で旅立ちましたが、人間、死に方ではなく生き方が全てと言う霊能者の言葉を信じても良いのでしょうか? 否定されても信じて行くつもりですが、仏様にお仕えするお立場からのご意見をお願い致します。
初めて質問します。 私は宗教に興味を持ち、勉強したいと思っています。 しかし、大学の専攻として仏教を学びたいわけではなく(他に学びたいことがあるので…)仏教の考え方を知りたいと思っています。 そこで欲張りではありますがいくつか質問させてください。 ①仏教はいろんな宗派があると思うのですが、それぞれで考え方は大きく変わるものでしょうか。もし変わるとしたらどの宗派を学べば良いのですか ②私はお経は南無阿弥陀仏しか知らないのですが、お経の解釈は独学でもできるものですか ③お寺などで仏教について学ぶことはできますか。やはり僧になる人でなければだめなのでしょうか ④結果手始めに何から学べばいいのですか 以上四つの質問です。ネットで検索してたら他の方の質問の回答もあって見てみたのですが、よくわからなかったので質問させていただきました。 だいぶ欲張ってしまったような気がするのですが、どうか回答よろしくお願いします。 また言葉遣い等失礼があったら申し訳ありません、今後気をつけるようにするので教えていただけるとありがたいです。
もともとお線香の香りを楽しみたくて仏壇用のお線香をよくたいていました。 最近、1週間に1回お花が届く「お花の定期便」というものを始めたのですが、 そのお花と、お線香と、元々家にあるLEDろうそくを並べてみたら…三具足!?と思いました。3つ並べた状態でLEDろうそくをつけてお線香をたいてみたらなんだか仏壇に向かっているような気持ちになりました。 お線香に火をつけた後は何故か自然に手を合わせたい気持ちになるので手を合わせますが、この時の私の気持ちは何か1つを思うわけではなく、祖母や無くなった友人のことを思い出したり、大好きな仏様のことを考えたり色々です。 私の格好もお風呂上りだったりけっこうラフな格好で夜にこうしている事が多いです。 そして「この三具足のようなもの」はパソコン机の上なので、定位置に置いているわけでもありません。何か作業を始めたら隅っこに追いやってしまいますし、お線香が燃え尽きたらお花を移動させてしまうこともあります。 でも、もうすぐお盆ですし今度はお供え用のお菓子も置いてみようかな?と思い、お菓子を買ってきてしまったりもしています。 いつまでこれをやってみたいと思うのか自分でもわかりませんが、 今みたいな事をしていても大丈夫なのでしょうか?疑問に思い質問させて頂きました、よろしくお願いします。
度々こちらでお世話になっております、高校2年生の庄子と申します。 近々ピアスの穴を開けようと思っているのですが、仏教の視点から見てピアスはOKなのでしょうか? 最近法然上人に関する本を読み、ますます仏教に興味が出てきたので気になります。 また、ピアスをしていると神聖なお寺や仏様から疎まれることもあるのでしょうか? 自分でも考えすぎかと思いましたが、素人が考えても分からず、実際のお坊さんから答えをいただきたく質問させていただきました。 既に似た質問がありましたらすみません。回答よろしくお願いいたします。
こんばんは。 私は最近仏教に興味を持ちはじめました。基礎を学びたいと思っているのですが、なにかおすすめの入門書はあるでしょうか? また、教えはもちろんのことですが、文化のことも知りたいと思っています。お坊さんが普段用いる道具や服飾、寺院の造りに関すること、お坊さんの生活や、行事ごとなどなど。少しでも取り上げている書籍をご存じであれば、こちらも教えていただけると幸いです。 よろしくお願いします。
こんにちは。 徳の高さは行動によって差はあるのでしょうか? 物施より法施の方が徳が高いと聞きますが 同じカテゴリーの中でもレベルの違いがありますか? 例えば、金銭の寄付によって人間を助けるのと動物を助けるのとではどちらが徳が高いでしょうか?
伝統的なものではないし、歴史も新しいのですが、仏教徒は、仏式結婚式をすべきなんでしょうか?
最近仏教に興味を持ちました。 浄土真宗では、南無阿弥陀仏と称えれば救われるというのを知りいろいろ調べてみました。 阿弥陀仏の生起本末を疑う事なくそのまま受け入れお救い頂ければ浄土へ成仏を叶えていただける。 これは凄い!と思い早速自分もと思いましたが、さっぱり上手くいきません。 どうやら疑蓋というものがある為に阿弥陀仏の本願を聞き入れる事ができないようです。 ところがその疑蓋は自力で外す事はできず、阿弥陀仏に外して頂くとの事でした。 どうやって外して頂くかといえば、阿弥陀仏の生起本末をよく聞き受け入れる。 でも、疑蓋がある為に聞き入れられない。 堂々巡りです。 疑蓋とかの自覚は全く無いし、知覚出来るようなものでも無いのでしょう。 法話などは一度も聞いた事は無くネットで調べてるだけなので、いまいち理解が足りないのかもしれません。 法話を聞きに伺う時間の余裕は、全く無いのですが、ネットで調べているだけでは、疑いが晴れることは無いのでしょうか?
はじめまして。最近仏教に興味を持ちまして学び始めた者です。 仏教に出会ってから少し生きやすくなりまして、今後も一層学んでいきたいと考えておりますが、どうしても1つ附に落ちない点があります。 『親孝行』についてです。 恥ずかしながら、親から逃れたくて海外へ飛び出てきました。 自分としては頑張ってきたつもりでしたが、正直なところ毒親二人にギブアップしてしまいました。 産んでもらったことには感謝していますが、現在は連絡をとっておりませんし、今後も実家に立ち寄ることはないと思います。 それでも親孝行すべきで、孝行していない私は親不孝ものですか? 仏教の基本的な考えに救われてはいるものの、”親孝行せよ”ーこのような記載を本やコラム等で見かける度に胸が苦しくなってしまいます。時折夢の中でも今だにうなされます。 今後どのような心持ちで過ごしていけば良いのか、生きる知恵をご教授願えませんでしょうか。宜しくお願いいたします。
前の話と似たような内容なのですが、同じ職業(画家)の好きな人と疎遠になっています。 母親曰く「待て」と言われてます。 向こうの方が立場が上なので、まずは実力をつけろと言われてます。会うのはそれからでもいいだろうと。 私の中に、なんでこんなに頑張らないといけないんだ、という焦る気持ちと、 頑張って違った新しい自分という土俵でまたお会いできたらという気持ちがあります。 焦っている時、イライラして家族にも邪見にされるときがあります。 また逆におろおろしまってもっとゆっくり物事を進めなさいともいわれます。 親の言うことは正しいと思っているのにイラっとすることもあります。 でも待ちながらそれが正解だと感じることもあります。 画家の仲間が増えて、みんな同年代の人は凄く苦労されてその中でも夢に向かってひたむきに頑張っている。中には同業者に貶されている人もいる方もいますしバイトしながら、別の仕事をしながら頑張っている人も。 年上の人達は年上の人たちでライバルがいて、年下の人たちに追い上げられそうになる中、孤高に取り組んでいる方もみられます。 もっと年上の人は本当に素晴らしい絵を描くのに、それでも絵の事で悩んでいる人も見ました。 私も貶されたり叱咤されたこともありますが、励まされたり期待されたりしながらやってていて、しかも家族も一応応援はしてくれてるので救われてる方だなと思います。仲間の話をネットや現実で聴くのもためになっています。 そういう人たちを見てると、その人がきっかけで待っていた縁のパワーって侮れないなと感じました。 仕事を極めるというのは難しいですね。 もっとゆったりとした心で仕事や日常に向かい、精進したいと思ってますが、 中々できない自分に悩んでます。でももっと視野を広げて縁のパワーを広げたら、いつかまたその人に仕事を通じて出会えるんじゃないか、同業者として支えられるぐらいの力が持てるんじゃないかという不思議な気持ちがしています。 こういう待つ縁の話は、仏教のお話にもあったりしますか?
こんにちは 厄年について教えてください。 私は今年、前厄です。 主人の勧めもあり、厄払いというものに行きました。 ですが、お恥ずかしながら そもそも厄年ということが、どういうものなのかわかりません。 しっかり理解せず厄払いに出向いてしまい、心がもやもやしています。 よく耳にするのが不運が続く事や心身に不調が訪れる…ということです。 いつか不運がくるのではないか… また少しでも 気分が落ち込むことがあるとこれは前厄だからなのか、と勝手に結びつけてしまい逆に自ら厄に飛び込んでいる気がしてなりません。 前厄、本厄、後厄と三年続くと聞きましたがこの先ずっとそうなのでしょうか? (勝手に魔が取り憑いたイメージです) この厄というものを理解し、向き合うためにも (厄年)というものを教えていただけませんでしょうか? そして、私はその間どういう立ち振舞いをしたらいいのか教えてください。 この厄年というものは家族も巻き込んでしまうものなのでしょうか…? どうぞよろしくお願いいたします。
最初に、、、別に報われたいわけではありません。 どちらかというと達観していると思います、いろいろ経験して結論として出した考えです。 仏教を勉強し、理不尽な目に会う度に疑問に感じるので質問をしたいです。 ・人の不幸には圧倒的な差がある。→どうしようもない、心の持ち方一つで変えられるものではない、不幸は不幸。 仏教修行をして執着を手放してる群発頭痛の人が幾ら心もの持ち方を変えても苦しく痛みに関しては、生まれつき健康で他人に危害を加える人よりも圧倒的に不幸である。 ・人に親切にしたり愛したり優しくしても、恩を仇で返されたり感謝すらされない人もいる。→最新の研究では人はサイコパスに魅力を感じるようです。また生まれつきの容姿や印象で好感度が変動するようです。 ストックホルム症候群や共依存など他人に優しくしない方が人は恩恵を得れる生物のようです。 ・人に与える人より搾取する人の方が富を得れる。不幸量は下がる。 →本人の認知としては搾取している気がしない人も沢山います。 というより世の中先進国は後進国から搾取していますが誰も富を彼らに分け与えません。 そして搾取した人達の方が贅沢できます。 教育を受けたいサウジアラビアの女性よりも専業主婦になりたい日本人女性の方が教育が整備されています。 食べ物を欲しがるアフリカの貧しい人よりも、廃棄する先進国の人の方が不幸ではありません。 ・感謝しても報われないが、他人を侮辱して壊す人は報われる。→感謝感謝の毎日ですが、感謝するより他人を貶す方が相手を支配できます、経営学や政治学ではよく言われてますが他人を従わせるには恐怖や暴力的な支配が有効です。 当たり前と思ってる方が気が楽です、私たちの生活にはありとあらゆる犠牲があります。小さい細菌やらが私たちの身体を守り、昆虫が生態を守り、牛さんの内臓が食べられ、低賃金の人がサービスを支え、私のような人はガス抜きにされ笑、後進国の人を搾取して。それに感謝してたらキリがありません。当たり前と思って見下してる世界に対して感謝ゼロの人の方が楽ですよね笑 ・耐え忍んで努力しても惨めに何も得られず、生まれてただ朽ち果てるのみ。→生まれつきかなりの運命が決まっていて、奮闘しても生まれつき全てを手に入れてる人に搾取される世界です。 報われなくてもいいから、少しは良い方向に向かいたい
仏教では無我や無自性を説きますが、それが否定するのはあくまでもインド哲学に於けるアートマンであって、日本あるいは他の文化の持つ「自我」とは必ずしも同一ではないと思います。「永続する魂」たる「アートマン」が存在しないことを理解すれば、即ち諸行無常を理解すればそれで良いのではないか、と思ってしまいます。 釈迦は八正道など自身の心がけを要することを勧めていますので、「無我」とは「ぼーっと生きる」ことでは断じてあり得ないと思います。 インド文化に住まない我々が「無我」の道を生きて行くとは、どういうことを意味するのでしょうか。
昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。 私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。 といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。 例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。 ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。 私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。 そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。 ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。 思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。 長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。 今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。 そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。
こんにちは。 最近仏像や曼荼羅などの仏教美術にすごく興味があります。 私自身も何かを作る人間なので、自分の作品にも取り入れたいと思っています。 わからない事は自分なりに調べてみてはいるのですが、仏教に関する専門知識はほとんどありません。 何となくいいなと思った程度で作品を作ってしまって良いのでしょうか? また、私の知り合いで宗教をモチーフに作った作品に誤った知識や解釈が含まれており、かなり厳しい批判をされてしまったという人もいます。 私も自分の作品をインターネットで公開したりします。作りたいものは決して仏教を貶すような内容の作品ではないのですが、宗教というデリケートな要素を含む作品は公開しない方が良いのでしょうか?よろしくお願いします。
父の勧めで武蔵野女子学院、短大卒、浄土真宗本願寺派の門信徒です。5年前位からビハーラ僧侶の資格を取り、生きとし生けるもの、万人の苦しみに寄り添いたいと思うようになりました。今年、中央仏教学院専修課程に願書を提出希望なのですが菩提寺の印が必要です。寺に相談した所、税金がかかる?との事でした。私が通学、得度を希望する事によってご住職にご迷惑をお掛けする事になるのでしょうか。
大学へ行くか専門学校に行くか進路に悩んでいます。 私は中学生の頃アルボムッレスマナサーラ長老の本を読んで仏教に興味を持ちました。 お坊さんになりたいわけではないですが、仏教学の学べる大学へ行って心のあり方、仏教の歴史を勉強したいです。 でももっと色々な本を自分で読むだけでも大学まで行かなくても勉強になるのかな?とも思います。大学は学費もかなりかかってくるのですごく悩みます。 それと専門学校と迷ってるわけは、親の仕事を継ぐのであれば専門学校へ行くことになるからです。きっと親は継いでほしいと思います。それが親孝行かなとも私は思います。 でもしたいって思わないし、その仕事をしてる私を想像しても楽しくなさそうです。 やっぱり仏教学の学べるの大学を調べれば調べるほどワクワクします。 親は専門学校に行ってくれると今も思ってると思います。大学に行きたいと言い出せないです。残念そうな顔を見るのがつらいです。 私は一人っ子なので継ぐなら私しかいません。 奨学金を借りてまで大学へ行って仏教を学んでもいいですか?
「和顔施」も、やはり状況に応じて変わっていく(変えねばならない)のでしょうか? 「和顔施」は、とても良い言葉・行為だと、私は思っています。回答僧の皆様も、何度か回答で触れられていますね。 ただ、新型コロナウイルス感染防止対策で、マスクが必須となり、表情を読み取りづらくなりましたね。逆に、私の表情や意志も、相手に伝わっていない可能性があります。 いずれ新型コロナウイルスは収束しても、以前と同じとはならないでしょう。「和顔施」も、今後はひと工夫する必要がありそうですね。 これ以上「ギスギスした社会」になるのは、私は嫌です。 回答僧の皆様は、和顔施の際に、何か「ひと工夫(プラスアルファ)」をされていますか?
六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております) 遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか? もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? よろしくお願い致します。
子どものことを「がき」ということがありますが、これは仏教語の「餓鬼」からきた言葉なんでしょうか?