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大乗非仏説をどう考えたら良いですか

回答数回答 3
有り難し有り難し 23

 自分は真宗の門徒なのですが、大乗非仏説を未だにどう消化すればいいか分かりません。文献学的な事実として、大乗経典は歴史上のお釈迦様が説いたものではないと思っています。しかし信仰はあります。「当時の人が苦しい状況から抜けるために書いたんだろうな」とも思いますが、法蔵菩薩の五劫の思惟や兆歳永劫の修行は疑えません。
 「当時の人が苦しい状況から抜けるために書いたんだろうな」というのが間違っているのでしょうか?仏教学的、専門的、もしくは信仰的に、導いてくだされば助かります…

2022年2月17日 19:49

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

AIは愛より出でて愛より… サブはメインより出でて集客力高し

(# ゚Д゚)「なんちゃら坂をプロデューサー本人が歌ったり踊ったら売れねぇだろうが。」
といえば、わかりやすいかと思いますが。
だめですか?堀下さん?
\(゜ロ\)(/ロ゜)/「ギャー」👈hasunoha発起人堀下氏の悲鳴
hasunohaにもhasunohaら・し・い💕回答僧様がおられる一方で奇人変人怪奇な回答僧も珍答僧も👴おるのぢゃ。
それとおなじぢゃよ。👿
サブカルチャーの方が本家より栄えるという今の日本の文化をご覧ください。
仏教がなんちゃらだということではなく人間の心理が先だと思うのです。
どんな業界も本家本元の王道は「逆に無理」「重い」「わからない」ということは現実の世界ではあるのです。
私、インドの山奥埼玉県人の凡下不悪ッ禁覚禅ともうします。
私の敬愛する秩父が最近、あまり好ましくない形で侵略されています。
秩父は神様が宿る埼玉県の最後の砦。
そこにJA支配や西武線支配やビジネス民支配、外様大名支配が進むと秩父は秩父でなくなってしまうのです。
アニメの『あの花』の聖地として多くの観光客が足を運び、経済が活性化されたと言ってもそれはそれに乗じた人たちが一時的に潤ったというだけだという人もおられます。

ですが、礼拝者、参列者数、閲覧者数、トータルでいえばそういう客寄せ御パンダ🐼を駆使した方が人が集まる。ただし、本家本元の精神からは少々方向性がピ~。
それも本人の感性次第。

「悟りはある」と言っても小保方さんの「STAP細胞はあります」というのと同じ目線の人たちもいるでしょう。
そんなものあるわけないと言っても、名前が変わって同じようなものが出てくる。
それによって救われた人がかみ砕いてもっとわかりやすい一般ウケする形にカスタマイズする。
結果的にその形で人がすくわれる、癒される、悩みが無くなるということがあれば、それはそれで本家本元、王道ではないのだけれども、本家本元、王道の気質を理解会得できない人たちをちゃんと救っている。
大きく見渡せば仏教マンガ、仏教ファンタジー、仏教説話、サブカルチャーの方が世間では人気でしょう。
ですが、それでも大切なのは、それによって救われる人もいるではありましょうが、本家本元の王道スタイルで救われない人をすくっている。
老舗のラーメン屋に足を運ぶ人も多い一方で手軽に食べられるインスタントラーメンも人気なのです。

2022年2月17日 22:22
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有り難し
おきもち

非説

のちさま

龍樹大師が中論の中で仏陀の非説について述べられていますが、実は釈尊は実体的な教えは何も説かれてはいないのであります。

言語化、文字化した途端にそれを凡夫は実体視して迷い苦しむことになるのは自明であったからであります。

対機説法、善巧方便というのもそのためなのです。

そして、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったため、後世に文字にて表されて伝えられている経典というものは、誤解を恐れずに申せば、釈尊のそのままの真意なる教えとして捉えて良いものかどうかは、非常に疑わしく、また、文字で表されたものは、釈尊の教えでないとするならば、全て「作り話」と言ってしまっても、ある意味において過言ではありません。

なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・

要は、上で述べたように「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じます。

また、文字化の否定のことを「言語道断」、「戯論寂滅」、「離戯論」、「離言真如」などと概念化してしまっても同様なことになりかねず、やはり、宜しくないものとなってしまいます。

しかし、それでは、一体どのようにして釈尊の教え、仏教を修学・修習していくべきであるのか、となりますと、直接に見仏して教えを頂ける如来が不在である以上、やはり、私たちは経典を頼りにしていく他に、その教えを学び修していく術はないのであります。

もちろん、経典は、何も根拠のない教えというわけではありません。八万四千とも言われる釈尊の善巧方便による無数の教えにおける、ある一面であったり、要約や公約されたものであったりと、それぞれの経典における方便的な立場があると考えることができます。

アサンガ大師は「摂大乗論」にて、「最清浄法界等流」というお言葉を使われておりますが、まさに、清浄なる真理の世界から流れ出ている教えであるとして、経典の内容について、慎重に吟味して扱う必要があるとは存じます。

問題は、では、どの経典やその中の教えが、(自分やそれぞれの衆生に対して)頼りになり、あるいは頼りとすべきかということについては、それも慎重に判断していくことが必要となります。

ツォンカパ大師は、その判断する仕方について「了義未了義善説心髄」を著されておいでです。宜しければご参考になされて下さい。

合掌

2022年2月18日 14:42
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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仏陀の意志に適うかどうかと、直説かどうかは関係がない

“大乗非仏説”と“大乗非仏教説”を分けておられますか?
大乗非仏説は『大乗経典はお釈迦様が直接説かれたものではない』という“事実”です。
大乗非仏教説は『原始仏教以外は仏陀の意志に適ってないから仏教じゃねーよ』という“意見”です。

意見を説き伏せる意味はないので、前者のみの話をしましょう。

かつて中国に孔子という人がいました。
この人は仏陀と同じくらいの時代の人で、“徳”という概念を重視した人道の思想を展開しました。
この思想は“儒教”と呼ばれ、歴代中華帝国の思想に多大な影響を及ぼしたのですが、この儒教の思想を最も実践的に示した書は『貞観政要』と申しまして、唐代(700年代)の成立です。
貞観政要はもちろん孔子が書いたものではありませんし、孔子の弟子が関わったものでもありません。
李世民という唐の皇帝を手本にした書物ですが、読んで儒教を実践することは何もおかしいことではありません。
中国でも日本でも、数々の支配者がこの書を読んで、儒教におけるリーダーの心得を学びました。

これの孔子を仏陀に、李世民を龍樹菩薩に入れ替えたのが大乗経典と言えるのではないでしょうか?
大乗非仏教説を唱える人は、龍樹菩薩の思想が仏陀の意志に適っていないと断言できるほど高学なのでしょうか?
玄奘三蔵の様に、インド各地でしっかりと修行して仏典を中国に持ち帰ったすさまじい人間がその違いに気づかず、違和感も覚えず、非仏教を仏教だと通し続けたと、そう言うのでしょうか?

私は歴史の流れの中で仏教がいかに大切にされてきたか、また法難にさらされてきたかを見れば、大乗経典に対してそのような意見は出せないと考えていますよ。
現代の日本仏教教団に不満がある、というのは理解できますけどね。

2022年2月18日 13:17
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有り難し
おきもち

けいじょう
日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐...
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質問者からのお礼

仏教の歴史的な流れを解説していただいたおかげで、自分の中でもスッキリしました
お釈迦さまが説いた説いていないではなく、仏の意に沿っているかどうかなのです」

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ