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解脱

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有り難し有り難し 10

 解脱は最高の「涅槃」から最低の「浄土」までレベルがあるようですが、日本の仏教は、目指すレベルに従って多宗派に分かれたようですね。

 最初日本に齎された仏教は解脱の実践方法だったようです。

 仏教の基本は真理の「般若経」、真実の「般若心経」、そして論理の「阿含経」で構成されていると思いますが、「阿含経」は南伝だったので、日本ではなじみが薄かったのでしょう。

 これらを基本とする根拠は 金剛般若経の次のような記述に依ります。

 説法の本質 「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」

 ところで、「阿含経」には解脱の処方迄示されています。

 有縁  (南伝 相応部経典 12.23. 縁)

 前略

 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ)

 (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。

 後略

 如実知見→厭離。厭離→離貪、の意識が芽生えれば、 離貪→解脱、に至ります。

 厭離は徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の事ではないでしょうか?

 この世が「穢土」であることの認識が重要です。

 これによって衆生は「浄土」、菩薩は「涅槃」を求めることになると思います。

2022年3月10日 14:09

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

からの「今どうか。」(全部読み終わった後に自身に問う)

解脱は解脱をきちんと本当にわきまえればランクはないでしょう。
服だって中途半端に脱いだら「脱げてない」のですから。
言葉の違いよりも今の自分を見つめる必要があると思いませんか。
遠くに解脱を求める心理が生じたら、それは今の実際の解脱ではなく「仏教にはこういう解脱があるらしい」という❝解脱「論」❞です。ズレ。悟りや解脱を「論」ずることと、本人のたった今の実際の安らぎとはズレがある。レシピと実際の出来立て料理ぐらい違う。
解脱したらどうなるか。
変わらず続く今がある。
「般若経・般若心経。金剛般若経」もその般若とやらを理屈でなしに「私の上ではこのように般若、智慧が確かに現じているぞ」ということをきちんと説いてみることです。そうすると論ずる般若ではなくなる。自身に機能している確かな救いの顕現としての般若を説き伝えることができる。

「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」
「それはなぜか。来生さま。今の自身の上に来るがごとく去るがごとくにあらわれる他方に求めぬ生きた如来如去あり。この身心に今も映し出されているたった今のあらわれという真実の体感こそ如来であり、真理、ありのまま、あやまりなき説法だからである。わが身が今触れるこのことのほかに真如も如来もない。」

そこに人間の見解が生ぜずして如実知見→厭離(楽寂静)→離貪(無我によって有へ執着から離れる)→解脱
今のこの事実は人間の見解が伴われずに最初から触れている「如実知見」→
厭離→追及の止んだ様子。我のお手付きのない様子→離貪
離貪→解脱に至る=👉もともと解脱体だったという自己の真相を会得するということ。「私」が解脱をしようとするのではなく、この身心、法性がもともと人間の思考や見解を超えて本来の解脱性をまっとうしていたとわきまえることが解脱の実現です。脱落身心。
この世が穢土であるとの認識は人によってはいきなり「ケガレ」のトラップ・罪業を植え付けることになり、かえってそれがために自分でかぶったケガレ意識を取り除けなくなる人もいます。
仏教的見解であるようでも学者的な分析マインドや知識に縛られたら解脱ではなくなることがある。浄土も涅槃もお隣さん、内容は同じです。隔てる心が衆生の我見凡見です。

2022年3月11日 4:12
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有り難し
おきもち

「仏性と見仏論」

来生さま

最近に「仏性と見仏論」について詳しく考察してみました。

https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/0950cf5ead04faebf8baee004bd3ba6d

日本の現在の主要な仏教となっている鎌倉仏教では、解脱論・修道論よりか、見仏論をかなり重視して教義を調えてあることが、各祖師方の仏性論を比較検討する中で見いだすことができました。

また、見仏論に依り過ぎてしまっているが故に、解脱に関する論点は非常に曖昧となってしまっており、通仏教的な解脱論における原則からも外れたものとなってしまっている祖師方の主張も散見されます。

ですから、日本の仏教の場合は、解脱を目指すのではなく、浄土を目指すということが主眼となっているというのは、まさにご指摘の通りでございます。

合掌

2022年3月11日 11:01
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

丹下 覚元 ご住職様
 厳しいご回答を有難うございます。
 「レベル」に反応されました様ですね。私も送信した後で違った表現が良かったかなとは思いましたが後の祭りでした。

 私がレベルと申しましたのは、「チベットの死者の書」に死後最初の7日間に7色の光に遭遇するという記述がありましたので、そのように申上げました。

 しかし少なくとも涅槃と浄土では明らかにレベルが違います。涅槃は「心の死」で、浄土は六道輪廻の多分「天界」だと思います。

 心の死は心がエネルギーに戻ることであり再び生まれ変わる可能性は零ですし、浄土は心がまだ生きていて、心変わりの可能性も残しています。

 それからこの投稿は、私がどうしたいのではなくて、解脱に至る縁起が阿含経に示されていることを申し上げたのです。私はそれまで解脱の方法を知らなかったものですから新鮮に映りました。

 それと釈尊は誰にでも直訳でわかるように易しく説教しています。
 従って、厭離(楽寂静)→離貪(無我によって有へ執着から離れる)のような
解釈ではなく、厭離(厭いて離れる)→離貪(貪欲を離れる)で充分ではないでしょうか?

 因みに「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの云々」と釈尊が語った時の「如来」は釈尊自身の事です。

 eishun ご住職様 お久しぶりでございます。

 その節は色々お世話になりました。

 「見仏と仏性論」を拝見しましたが、私には手に負えない内容でした。

 唯、解脱の実践方法は何でもありですから、自分の納得する方法に従うことが一番なのでしょう。しかし施行方法が阿含経の示すどの過程に適応しているか確認しないと、間違った実践になりかねません。

 一例として、あるお寺の掃除を仕事としている人が、生涯その仕事を続けて、解脱した逸話がお経にありましたが、多分仏教すら知らなくても、「離貪」を貫き通したからだろうと推察します。

 キリスト教の人でも祈りの過程で「離貪」の心境になれば、浄土(天国)へ行けるのではないでしょうか?

 仏教は「真実」の教えなので、信教の如何を問いません。「生老病死」はすべての生物に共通ですから、仏教は宗教を超えていると思います。

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有り難し有り難し 9
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