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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

仏教について知りたいです

私は、高校生の時に父の母(日本のお祖母ちゃん)のお墓参りをしたいと思い立ち、バイトで旅費を貯め、産まれて始めて国内一人旅をしました。 それまで、キリスト教の母親の母国で生活をしていたため日本の文化や風習など、わからない事がいっぱいありました。日本に帰国したのは私が中学三年になったばかりの頃で、帰国子女で日系人だったこともあり、イジメの的になりました。そこから私は明るさと本当の笑顔を失いました。鏡や写真に映る自分を見るのが嫌になりました。自分の話す日本語にも不安を覚えてしまい、黙り込むようになりました。 あるとき、父親から日本のお祖母ちゃんはお寺の娘さんだった事を知り、お祖母ちゃんのお墓参りをしたくなりました。 そして、父親が教えてくれたお寺を目指して京都の福知山市にまで行きました。道中、兵庫県の無人駅で降りてしまい、徒歩で京都の県境まで歩くなどいろいろありました。三時間以上歩き続けてやっとの事でお寺に着きました。そしてお寺の方が自分の遠い親戚にあたることを知りビックリしました。いままで、日本の親族に会ったこともなかったのですごく嬉しくなりました。 しかし、残念ながらお祖母ちゃんのお墓が松江市と千葉県に分骨してあると知りお墓参り出来ませんでした。 私がお寺に行った事によって、その後は父親の家族(7人兄弟)から連絡が来るようになり、絶縁だった父親の兄弟の和を復縁させるきっかけになりました。そして、半年後にお祖母ちゃんのお墓参りができました。 私が仏教に関する事に触れると、なにか良いことが起きるみたいに感じます。もっと仏教について知りたいです。こんな私でも、仏教について学んでもいいでしょうか? あと、ひとつだけずっと気になる事があります。 当時お寺に行って一晩だけお寺に泊めてもらえました。その翌朝お手洗いに行く途中、足の指先を蜂に刺されました。これは何かしらのお告げだったのでしょうか? 長文になり申し訳ありませんが回答の方をよろしくお願いします。日本語間違っていたらすみません。

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身体的弱者と仏教

キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。

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心願成就について

仏教の入り口に立ちなにやら分からなくなってしまったので教えて頂きたいのですが 仏教の到達点は苦しみから救われることだとの解釈をしていますが、どのお寺でも心願成就のご祈祷やお守りがあります。 望むこと自体が欲なはずなのに心願成就をお祈りして叶うのでしょうか。それともその心願自体が苦しみであるからその捉われから解き放つという意味なのでしょうか。 例えば、守るべき人の為に出世したいとか、好きな相手を幸せにすることが己の幸せ《救い》とか願ってはいけないことなのでしょうか。それすらも捉われであって身を任せなければならないのでしょうか。 で、あれば仏様に祈る心願成就とは何を祈るべきなのでしょうか。 現代社会の中では、祈ることも預けることも逃避と断ぜられることも多々あると思います。逃避とはいえ、仏の修行は果てしなく苦しい逃避なのではないかと。 人でなくても輪廻の中に生きる生物として その枠を越えて望むことは許されているのに、一人を幸せにすることは憚られることなのか。勿論、今世だけのスパンでないことは素人なりに理解しているつもりですが 失礼なことを書き連ねましたが 何卒、宜しくお願い致します。

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信ずるものの矛盾について

前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。

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