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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

自分に合う仏教の宗派

 生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。  大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。  キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。  そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。  私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。  伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。

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お肉を食べることについて

初めて質問致します。 生きるということは数々の命を犠牲にすることだとわかったつもりでいましたが、最近、特にお肉を食べることについて割り切れなくなってきています。 最近子供と牧場に遊びに行って、牛の乳搾りを体験致しました。乳のはった雌牛のおっぱいを握ると、あたたかくてやわらかく、涙が出そうになりました。 牛は、子牛のために乳を作り、関係のない人間に搾り取られても、文句ひとつ言わないのだと思うと心が締め付けられました。 ですが私はその夜に同じ牧場で牛肉をお腹いっぱい食べました。生きている牛に触れた感動を忘れたわけではなかったのですが、肉を食べるという行為があまりにも日常化しすぎていました。 今では毎日、命を食べることについて考えています。 例えばこの世界に私と一匹の鶏しか存在しなかったとしても私には鶏を殺め羽をむしって食すということはできません。空腹で死にそうになったとしても鶏を殺すことはできないでしょう。 なので私にはそもそも鶏肉を食べる資格はないのではないか?と思ってしまいます。パックに入って売っているので、この肉を食べるということが一体どういうことなのか、というのが見えてこないだけなのだと思います。 ベジタリアンにはなっていないので、普段の生活で肉を食べることがありますが、犠牲になった動物の命ほどの価値が自分と自分の人生にあるとは思えません。 毎日毎日、他の動物の命を奪って生きるのはとても辛いです。 そして毎日こんなことを食事のたびに考えています。一人なら良いのですが子供や夫の分の食事を私が用意しています。 私のこういった苦悩に、成長期の子供を巻き込んで、ベジタリアンにしてしまうのが正しいのかわかりません。 お肉がどのようにして食卓に並ぶのかを教えてその結果私のように悩みながら生きていってほしくはありません。 なにをどう食べて生きて何を子供に教えれば良いのでしょうか。 感謝をして食べなさいと言いますが、感謝をすれば何をしても良いのでしょうか? なにも考えずに、お肉をお腹いっぱい食べられる人達は、私と何が違うのでしょうか。 まわりにこんな悩みを持っている人はいませんし、日本ではベジタリアンはあまりいませんよね… 最後まで読んでくださりありがとうございます。 アドバイスよろしくお願いします。

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世俗諦即勝義諦と最終的基体(dhātu)の関係について

ここにいらっしゃられる、とあるお坊様のwebサイトを読ませて頂いている者であります。 以前、私の仏教哲学への偏見や誤解が過ちであったと気付かせて貰う経験をさせて頂いた時から、 より仏教、特に原子仏教の教義への関心を持ち始めたこの頃であります。 最近では某様のサイトを読ませて頂き、私の様な凡夫でも僅少ながら仏教哲学や用語などの意味を把握する事が出来ました。 某様には本当に感謝しております。 勿論ネットでは知る事が出来る情報が限られていますので、これからは原本や学術書を読まなければならないと思っております。 最近、世俗諦即勝義諦が最終的基体(dhātu)を思想に含むという可能性がある、 という記事を見かけ大変困惑している次第であります。 具体的に世俗諦即勝義諦が最終的基体をどういう風に含むのかという解説は記述されておりませんでしたが、 私のような素人にしては訳も分かりません。 「空」による徹底的な実在否定が為されてきた中観思想の教義の頂点とも言えるべき勝義諦に、 果たして絶対的な実在・自相を持つ本質体としての最終的基体(dhātu)を思想に組み込む余地があるのでしょうか? また、如来蔵思想と非常に近しい阿頼耶識・唯識思想でも最終的基体(dhātu)を想定しているのでしょうか? 私は皆様の様に粉骨砕身する程仏教について勉強した事の無い矮小な若造でありますし、 正直この様な質問をさせて頂く事にさえ抵抗を感じました。 本来なら身を削る思いで体得する知識を、ネットで安易に答えを求めると云う怠慢こそ煩悩の一つでは無いかとさえ思われます。皆様の仏教について勉強する上での指針、心構えという物を教授願っても宜しいでしょうか?

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反省について

はじめまして。唯と申します。 私はクリスチャンの両親に育てられ、 形ばかりですが、洗礼も受けました。 今は、教会に行くことも殆どありませんが、 子供の頃は、 クリスチャンとしての躾を受けました。 何か悪い事をすれば、お説教され、 どんなに悪い子だったかお祈りをさせられて、 それからお仕置きを受けました。 好きな物を食べる事を禁じられたり、 外出禁止や、時にはとても痛い思いもしました。 事の善悪を教えて頂いた事には感謝しています。 年齢的に、自分で自分を律する立場になった時、 気が付いた事がありました。 それは、 自分が犯した罪を告白し赦しを乞う事はしても、 十分な『反省』が出来ない、しない、と言う事です。 お仕置きされて、お仕置き嫌さに悪い事をしていなかっただけだと、気付きました。 牧師様に尋ねても『祈りなさい』と言われただけでした。 機会があり、ほんの少しですが仏教の教えに触れる事がありました。 『慚愧』について聞いた時、 益々、反省の出来ない自分に落胆し、それから、 どうしたら反省の出来る自分に変われるかを、 考え続けています。 仏教における『罪』の意味や、『反省』するための考え方など、教えて頂けないでしょうか? 宜しくお願い致します。

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 仏教では創造主は否定されると聞きましたが、、、  

 私は虫が生理的にどうしても苦手です。しかし、人間の技術では蟻一匹も造れないという事を考えると、自然の驚異を感じます。そして、虫さんもすごいよね、尊い命だね、と自分に言い聞かせて、何とか恐怖心を和らげるようにしたりもします。それでも虫恐怖症は克服できませんが^^;、、、。   45億年前にはこの世が太陽と塵だけだった、というような話を聞いた事があります。私には科学的な知識が無く、創造論や進化論についてもよく分かりませんが、とにかく何かしらの大きな力の導きが無ければ、たとえ45億年たったとしても、今のような地球や植物、動物、人間は生まれていなかっただろう、と思いました。私のような考えを持つ人は多いような気がします。  このような考えを持ったのはカトリック系の大学に通っていた頃、神父様のお話に影響を受けたというのもあります。私はクリスチャンでもないし、キリスト教でいうような唯一の創造主=神が存在するだろう、と考えているわけではありません。しかし、唯一ではなく複数だとしても、この世にはなにかしらの人知を超える大きな意志が存在して自然をつかさどり、その大きな意志が地球やそこに住む生物を作り上げたのではないだろうか、と漠然と思っています。だから八百万の神というのもなんとなくしっくりきます。  仏教では創造主の存在は説いていないと聞いたことがあります。しかし、宇宙と地球、そしてそこに息づくあらゆる生物が生まれるように導いた存在について、仏教でも何らかの解釈がされているのかどうか、知りたいです。もしくは、皆様はどのようにお考えでしょうか?

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