想いに左右されないというのは
禅に興味を持ち始め、禅に関する本などを読んだり、このサイトにもよく見にきます。
こうして仏教と触れていくうちに、自分の雑念などそういったものに振り回されないような生き方を身に付けたいと思うようになりました。
しかし、だんだんとその雑念というものを振り払うというのが、自分の大切な感情を無視しているように思えてならなくなり、何か大事なものを見落としてしまいそうな気がしてしまうのです。
なんともまとまらない文章になってしまいすみません。一体どうしたら良いのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そもそもどこを目指しているのですか?
さてさて…hasunohaの禅宗のお坊さんは皆、雑念を振り払えとは言っていませんよ?雑念を捨てろというのは十三代目石川五右衛門の修業です。仏道修行ではありません。
特に古いお経を読んでみますとね、お釈迦さまは悟りを開いた後でもしょっちゅうマーラ(悪魔)に出会っています。マーラとは煩悩とかいわゆる雑念の象徴です。悟った後のお釈迦さまでも雑念はあったのですよ。悟ったら一切の煩悩が二度と湧かなくなるというのは後世の神格化ということです。
まぁ意地悪な言い方はホドホドにするとして、さて、私は昨年の春、新幹線の自由席に乗っていました。出入口近くに座っていると、銀色の頭髪が見事な高齢の女性が車両に入って来ました。かなりお歳を召していらっしゃるのは見て分かりましたが、それでも芯の通った姿勢にエネルギーに満ちた足取り、とてもお元気そうでした。
最近のご高齢者は席を譲られるとかえって嫌がる方が多いので、私はいつも通り尋ねました。「座りますか?」すると女性は「いえいえ、次の駅ですぐ降りますので結構ですよ、ありがとうございます。」とおっしゃってニコリとされました。
1、2分して、今度は通路を挟んで隣の席でモジモジしていたお嬢さんが言いました。「あの…どうぞ座って下さい…」それでも銀髪の女性は座りませんでした。
すると今度は、それを見ていた恰幅の良い働き盛りの男性が、「俺、タバコ吸ってくるからさ、2、3分この席開くから座りなよ。2、3分で戻ってきたらまた代わってもらうからさ、その間座ってなよ。」そこで銀髪の女性は渋々座りましたが、口元には気持ちの良い微笑みをたたえていました。そして若い女性も、私も、まわりで見ていた人々も微笑んでいました。良い思い出です。
仏道ってこういうことです。悪いことをすれば悪い循環となり、善いことをすれば善い循環となる。だからみんなで善いことをして、みんなで苦から離れよう。
善いことをして晴れやかな気持ちになれば、その時に気付くでしょう。雑念なんか忘れていたなと。
たとえ、「想いに左右されない」心の状態になっていても、人の気持に鈍感になったり、思いやりの心がなくなったり、また自分の中から豊かな感情や感性が消えてしまったら、何にもならないですものね。
修行した結果、悟りすましたかのような冷たい心になるぐらいなら、修行しない方が良いぐらいです。それに豊かな心は、さまざまな想いに揺れる中で育まれていくという面もあるぐらいで、、、。
さて、未だに心が揺れまくる時がある僕(汗)が言うのも何ですが、僕がして来た(いる)利他三昧の念仏修行を例にご説明してみます。念仏三昧に入ると、限りなく感性が研ぎすまされて行くと同時に、心が静まりかえって一切普遍の状態になっていくところもあります。
その世界では、揺れる心も、またその原因となる外の世界もなくなる。だけど感情や感覚は豊かに広がります。だから揺れる心の奥底につながる(ので全く揺れない)けど、感情はかえって豊かになるように思います。
さて、何らかのご参考になればと思って書きましたが、果たしてお役に立てましたかどうか、、、?。
雑念とはなに?
あなたの言う雑念とは何のことでしょう。どんなことを思ってもいいのです。それが自然。思ったら思ったまんま。手をつけないこと。
外で食事をすることに。今日は炒飯だ^_^
食べてみたら味が薄い。塩が足りないのではないか。誰が作ったんだ?いつもの味と違う。
店員に言おうかなあ。この店味が安定してないなあ。もう来るの嫌だな。そういえばさっき店員の水の置き方が雑だったし、感じ悪い。
こうした心の動き、思いの付け足しは、現実から離れていきます。
だから、ただ、そこ時炒飯の味がした。そこで終わり。他と比べることもなく、美味しいだのまずいだの、思ったとしてもそれを問題としないこと。そのまんまでいいのです。
思いを消したり、押さえつけたりすることではないのです。
感情を払うのではなく転じる。
こんばんは。
無視ではなく働きを変えるという考え方もまります。
どう活かし、どう卒業させるか。
煩悩が菩提に転じるという発想をしたお坊さんも過去にいました。
患者がいなけりゃ医者は要らん。
悩みがあればこそ如来が意味をもつ。
ご参考までに。