あるセラピー系の本を友人に頂き、読んでみました。心を浄化させる、というようなタイトルの本です。 この本には 「今を生きる」「ご縁にまかせる」「善悪をはっきりさせない」という内容の話もあり、なんとなく仏教の教えに似ている感じがしました。類似の本はたくさんあるようですが、この本は全体的に読みやすい本でした。 ところで、その本の中で気になる文章がありました。「自分の心に愛を注ぐことで、あらゆる想いを溶かし、想いを成仏させる(思いを光に返す)。」というような内容の文章です。 読んでいて心が安らかになる感じがしたのですが、いまいち、ピンとこない部分もあります。 「自分の心に愛を注ぐ」、「想いを溶かす」、「想いを成仏させる」という考えは仏教にもある考えなのでしょうか? あるとすれば、どのように解釈できるのでしょうか?
「往生」の対語は「輪廻」でしょうか。 浄土真宗での往生が往相回向の果とすれば、対語は還相回向の果に相当するものだと思いますので、「輪廻」ではその果を表してはいないようです。
仏の教えを感じさせる日本の歌(JPopでも童謡でも演歌でも構いません)ってありますでしょうか? 歌のタイトル、アーティスト名、できればその歌を象徴する仏語を教えていただけますと聴く際の参考になります。
仏教の教えの貪瞋癡の癡についておしえてください。 貪は欲で、瞋が怒り、欲と怒りは仏教を知らない人が聞いても意味がわかると思いますが、癡の無知がよくわかりません。仏教の無知とはどう言う意味ですか。
一人息子が33歳の若さで自殺をしました。 自分なんかが生まれてこなければ息子もこの世に生を受けることもなかったし、当然のことながら自殺することもなかったと自分を責め、 心のよりどころを模索していました。 もともと父が熱心な浄土真宗の信者でしたから、私は仏教に興味を もっていました。そんな時、浄土真宗の仏教講座のチラシがポストに 入っておりました。 そこには入場無料で一回限りとあったので行ってみたのですが、お布施を取られ、月に1~2回やっていて、さらに仏教を学びたいなら 親鸞学徒になることを勧められました。それには入会金5万の会費3千円が必要とのことでした。 お布施なら謝礼として自由意志でできますが、月3千円と決められているのは納得がいきません。 月に1~2度、仏教講座に行くことも難しいし、どのようにして 仏教を学んだらよいのかまた親鸞学徒の入会金・会費は適切だと思われるかをお聞きしたいです。
はじめまして。 近頃仏教に興味が湧いてきました。そこで悟りを開くために自分も何か修行しようと思い、どのように修行をすればいいのかを知りたくなりました。 今はまだ出家する気はないので、出家せずにする修行法を教えてください。 スポーツも年々新しい効率的なトレーニング法が考案されますが、仏教にも最新式の修行法などがもしあれば教えていただきたいです。
私は、日本の仏教についてとても興味を持っています。 そして、仏教についてもっと、いろいろ知りたくなりました。 そこで、仏教についての分かりやすい本はありますか? おすすめ本を教えてください。
こんばんわ。このサイトに出会い自分のモヤモヤの正体がわかり、心もち変わりつつあります。相談にお返事いただいた皆さまのおかげです。ありがとうございます。 私は日記をつけたり、メモしたり物を取りおいたりして暮らしてきました。 しかし、目の前のこと、見たこと、聞いたことに暮らしていくということは、不要なものは、不要。暮らしやすくしていくことが見えてきました。 この考えで合っていますか? 私はこの際、きちんと暮らしから直していきたいのでどうか教えてください。
精神疾患や人格障害などで責任転嫁や攻撃をしてくる人と信頼関係を構築しなければならない場合、お坊さんはどのような姿勢で関わりますか?
くだらない内容で申し訳ありませんが 少し気になったので質問させていただきます 昔小学生の頃、お寺でお坊さんと母達が話しているときに 「この子は蓮の花を持っている」と私にむけて言われたそうです 私はその時の事を覚えてないので なんて話してたのか忘れてしまったのですが…… 蓮の花を持っている、とはどんな意味なんでしょうか? こんな質問で本当にすいません、 暇な時にでもご回答お願いします。
仏教の本質とはどのような教えですか? 宜しくお願い致します❗
先日の疑問に答えてくれた方、ありがとうございました。m(_ _)m 仏教を学び、これからは五戒を守ろうと決めました。 仏教を実践しようと、身近な家の手伝いからはじめたのですが、 家が農家なので当然畑仕事が含まれます。畑仕事の内容のほとんどが 作物の収穫なので、植物の命を奪う殺生の罪にならないのでしょうか。 仏教を実践して、五戒を破るようでは本末転倒なのでわないか?と思い疑問を投稿させていただきました。 また、畑仕事は悪いことでは無かったとしても、その為に害虫や害獣の駆除はいいのかなどの、どこからが良くてどこからが悪いなどの事と、何故、虫や動物の殺生が悪くても、植物の殺生はいいのかと言う 事にも答えていただけるとありがたいです。 ご回答お待ちしています。
初めまして。ぴっころと申します。 質問が2つあります。 ①仏教的には誕生日を祝うという概念はありませんか❔ ②お坊さんに子供や奥さんや恋人がいたとして、誕生日はお祝いしませんか❔ 宗派によっても違ったりしますか❔ よろしくお願いします。
私は釣りが趣味で、友人や家族で行くのですが、これって悪い行為でしょうか。 釣れたものはなるべく持ち帰って食べるのですが、中には食べれない魚が釣れて、放してもそのまま死んでしまう事もあります。 釣りによって生活に楽しみがあるのも事実です。 そして、生活のために釣りをしているのではなく、趣味として釣りをしています。子供たちも釣りに誘うとそれを楽しみにして生活し、釣りに行けば楽しんでいます。良い面だけをとらえるなら部屋にこもってゲームばかりよりも良いのかとも思ったりするのですが、どうなのでしょうか。
よろしくお願いいたします。 道徳なんかですと、「努力は必ず報われる」というな感覚だと思いますが、仏教ではそのような場面に関しての考え方はございますか。 例えば、高校、大学受験や難関の資格試験等に関してです。 特にこういった合格、不合格のはっきりしたものでは、不合格になり、尚且つ諦めてしまえば何も残らないと思っております。 高校、大学受験は期限があるものなので仕方ない部分もあると思いますが、 難関の資格試験については、諦めても努力は忍耐として精神に残る。諦めてもそれまでの知識は役に立つ。 というような言葉は、最初の決心を諦めた後ろめたさをごまかすための、気休めや言い訳に思えてしまうのですが。 仏教は未来をつかさどるものではないと伺った事がありますが、努力は実るも実らぬも結局、自分次第の能力のみでしょうか。 よろしくお願いいたします。
お世話になっております。 色々なお経を読んだ際に、しばしば「帰依」という言葉が出てきますが、最近「これって実はかなり深刻な一語なのでは⁉︎」と気に掛かりました。 私は神社や神棚にもお参りしますし、お寺についても各宗派お参りし「強いて言えば◯◯宗と◯◯宗が『好き』かなぁ」という様な者です。 そんな二股三股かけているものが、軽々しく諸宗派の勤行やら「南無◯◯」などを「時や場所次第」で唱え「帰依」を口にするのは、何処か節操を欠いている様な気がしています。 先ずは僧職である皆様の御見解をお聞かせ頂ければと思い質問させて頂きました。 何卒お願い申し上げます。
私は、高校生の時に父の母(日本のお祖母ちゃん)のお墓参りをしたいと思い立ち、バイトで旅費を貯め、産まれて始めて国内一人旅をしました。 それまで、キリスト教の母親の母国で生活をしていたため日本の文化や風習など、わからない事がいっぱいありました。日本に帰国したのは私が中学三年になったばかりの頃で、帰国子女で日系人だったこともあり、イジメの的になりました。そこから私は明るさと本当の笑顔を失いました。鏡や写真に映る自分を見るのが嫌になりました。自分の話す日本語にも不安を覚えてしまい、黙り込むようになりました。 あるとき、父親から日本のお祖母ちゃんはお寺の娘さんだった事を知り、お祖母ちゃんのお墓参りをしたくなりました。 そして、父親が教えてくれたお寺を目指して京都の福知山市にまで行きました。道中、兵庫県の無人駅で降りてしまい、徒歩で京都の県境まで歩くなどいろいろありました。三時間以上歩き続けてやっとの事でお寺に着きました。そしてお寺の方が自分の遠い親戚にあたることを知りビックリしました。いままで、日本の親族に会ったこともなかったのですごく嬉しくなりました。 しかし、残念ながらお祖母ちゃんのお墓が松江市と千葉県に分骨してあると知りお墓参り出来ませんでした。 私がお寺に行った事によって、その後は父親の家族(7人兄弟)から連絡が来るようになり、絶縁だった父親の兄弟の和を復縁させるきっかけになりました。そして、半年後にお祖母ちゃんのお墓参りができました。 私が仏教に関する事に触れると、なにか良いことが起きるみたいに感じます。もっと仏教について知りたいです。こんな私でも、仏教について学んでもいいでしょうか? あと、ひとつだけずっと気になる事があります。 当時お寺に行って一晩だけお寺に泊めてもらえました。その翌朝お手洗いに行く途中、足の指先を蜂に刺されました。これは何かしらのお告げだったのでしょうか? 長文になり申し訳ありませんが回答の方をよろしくお願いします。日本語間違っていたらすみません。
先日の身体的弱者と出家の質問を書いていてふと思ったのですが、 重度の知的障害者というのは仏教のなかではどの位置にあるのでしょう。 重度の精神・知的障害者の方たちが僧職にはつけないことは理解できますが、仏教というものを私達の言葉・ものさしでは理解・表現できない、身体的・精神的に障害があるひとたちは、仏教徒にはなりえるのでしょうか。 仏教によって、例えば先ほどの浄土真宗の死後成仏し救われるといったような仏道の道というのは彼らにも開いているのでしょうか。
キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
仏教の入り口に立ちなにやら分からなくなってしまったので教えて頂きたいのですが 仏教の到達点は苦しみから救われることだとの解釈をしていますが、どのお寺でも心願成就のご祈祷やお守りがあります。 望むこと自体が欲なはずなのに心願成就をお祈りして叶うのでしょうか。それともその心願自体が苦しみであるからその捉われから解き放つという意味なのでしょうか。 例えば、守るべき人の為に出世したいとか、好きな相手を幸せにすることが己の幸せ《救い》とか願ってはいけないことなのでしょうか。それすらも捉われであって身を任せなければならないのでしょうか。 で、あれば仏様に祈る心願成就とは何を祈るべきなのでしょうか。 現代社会の中では、祈ることも預けることも逃避と断ぜられることも多々あると思います。逃避とはいえ、仏の修行は果てしなく苦しい逃避なのではないかと。 人でなくても輪廻の中に生きる生物として その枠を越えて望むことは許されているのに、一人を幸せにすることは憚られることなのか。勿論、今世だけのスパンでないことは素人なりに理解しているつもりですが 失礼なことを書き連ねましたが 何卒、宜しくお願い致します。