生前の仏教の触れ具合は死後の「ハンデ」になる?
まず素朴な疑問のうえ、お坊さんの限りある時間と質問を増やしてしまい頭が下がります。
死後の行き先は生前の「行い」によって左右されるというのは勿論ですが、
こちらのサイトでもいろいろ知恵を授かっている内に、
死後の「裁判」は良い悪いの数直線上では計れないところもあると感じています。
たとえば、ある人は日本に住んでいて、
まったく仏教に触れていなかったとしたら?
ある人は仏教に触れて、
仏教の「表面上の」知識は身に付けて、
それでもなお多かれ少なかれの悪い行いをして…
後者は私ですが、少なくとも「知っていて尚悪いことをする」のと、
知らずに悪いことをしたのとは、やはり裁判の天秤の重さに違いがあるのでは?と思いました。
「弥勒菩薩は兜率天に住み…」
「虚言はいけない」
「丸々寺は誰々により開かれ」
「般若心経」
「お寺や神社の真ん中を歩いちゃ駄目。」
「蚊を殺しただけで地獄」
「獄卒が火であぶる。」
私はこのような「情報」を得て、我を顧みることもなく過ごしています。
ただ蚊は殺めません。
仏教で守るべき掟も、出家された方にとっては、いままでとはより厳しくなると思います。
まず、
出家された僧たちにある戒律は、破ったときにのちの自分に降りかかるのでしょうか?
それとも守ることで人のため、世界が良くなるべきの「願い」の要素がありますか?
また、「在家」まではいかないが仏教を信仰する私として、
表面上の仏教を(インターネットで閲覧できる限りの知識を)覚えるごとに
死後の裁判の「ものさし」が厳しくなるということはあるのでしょうか。
おなじく、お坊さんとも一般人とも、仏教の知識が死後の「ハンデ」とはならないでしょうか?
有り難し 15
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