少し哲学じみた質問なのですが、 仏教の教えで考えが変わるのであれば どうかお話を聞かせて下さい。 学生時代、地球がいつかなくなると 授業で習いました。 だいぶ後の事だし今が楽しかったので、 そこまで気にもしてなかった事なのですが ふと、そんな事を考えていたら、 地球がなくなる=いま生きている事がなくなる と繋がってしまい、いつか何もない 無の世界になってしまうのか?と 毎日不安で押しつぶされそうになりました 死ぬことが怖いとは思いませんが、何もなくなる世界が恐ろしくてたまりません。 この恐怖をなくして、前のように今ある命、人生を楽しく、人間らしく生きて いきたいです。 変な質問ですみません。 どうかアドバイスをお願いします。
少し前に、曹洞宗の信者になるにはどうしたらいいのでしょう? と、初めての質問をしたハタケです。 前回の質問の回答を読んでまた疑問がでてきてしまいました。 仏教との出会い、縁を大切にし、学んでいこうと決めたのですが、私は信者になりお寺に所属?檀家になると仏教のことを教えてもらえる機会があるのかなと思っていたのです。 しかし、前回の回答で、幅広く仏教を学ぶこと、宗派に拘らず、檀家=信者ではないと、、、 その回答を何度も読んでみて、曹洞宗に入ったからそれで満足、それで信者で終わってしまうのではなく、本気で、正しく、自分自身で学ぶことも大切なのかもしれないと思いました。 しかし、その方法がよくわかりません、、、 本などを読むべきなのか、、 一つ不安なのは、我流で仏教を学んで間違った解釈をしてしまわないかと不安です。 どのように学んでいくといいのでしょうか? よろしくお願いいたします。
漠然とですが20代の頃から、いつかはどこかの宗教の信者になって、それを心のよりどころ、自分の手本にして生きていきたいと思ってました。 そして去年、座禅を知りとその流れで曹洞宗を知りました。座禅を知ったと言っても座禅会などに参加したわけではなく、ただ、座禅に出会った程度のものなのですが、ちょうど悩んでた時期と重なり、座禅、道元禅師の言葉がその時の自分の心にすっと入って心が楽になった気がします。 私の家は分家で、宗派は浄土真宗らしいのですが、母親にそのことを伝え相談したところ、自分の好きな、信じることのできる宗派に入ればいいと言ってもらえました。 そこで神様も仏様も何もかも知らない私が曹洞宗の信者になるにはどうしたらいいのでしょう? どうすれば信者になれるのでしょうか? また、こんな気持ちで宗教を決めてしまって、いいものなのでしょうか? この質問で浄土真宗から、曹洞宗に変えたいと言ってますが、決して浄土真宗をバカにしているわけではなく、ただ、その時の私に曹洞宗がすっと入ってきたような気がするだけです。 よろしくお願いします。
仏教の考え方では、"幸せとは苦が無いこと"が幸せであってますか?
荘子を読んでいたら、なんだか仏教みたいなことを言ってるなと感じました。 お坊さんから見て荘子は仏教の影響を受けていると思われますか? 荘子と仏教はどういうところが違いますか?
仏教では詭弁にひっかからないためにどういう方法を教えていますか? 昔から詭弁を使って間違ったことを真実だと思わせようとしている人はいたと思うので、お釈迦さんは詭弁を見抜く方法を弟子に教えていたと思うのですが
最近、仏教について勉強しています。 座禅の仕方や四法印の意味など、知れば知るほど『なるほど』と、思うことが多く、大変勉強になっています。 私にとって特に影響力があったのが、小池龍之介先生の考えない練習です。 心の扱い方や感覚に意識を向けることなど、試してみたところ集中力ものびたし悩みもずいぶんと減りました。 仏の教えは、心の教育にすごく役立つと思ったのですが、私の個人的な実感としては、今の日本にはあまり広まっていないような気がします。 これは、個人の興味の有無の問題なのですが、仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか? 先生方の実感としては、どのようなところに伝わりにくさがあると思いますか?
分かりやすく教えて下さい。 物質はあるのに空であるっていう意味がよく分かりません。 こちらの思い一つで物質の意味が変わるというようなニュアンスでいいのでしょうか? 「空」だと知ることに何の意味があるのでしょうか?
仏教の教えには「戒律」がありますが、なぜ守らなければいけないのでしょう? 私は一般の会社に勤めていますが、戒律を守る僧侶に憧れがあります。 自分も僧侶になりたいと思う気持ちがあります。 でも、なかなか一歩が踏み出せません。 以前、出家者の結婚について質問した時に「結婚しても修行はできる」「あなたの仏教に対する理想」「仏教学屁理屈」とご指摘頂きました。 正直、とても頭がこんがらがってしまいました。 在家者の五戒・出家者の十戒という明確な戒律があることは、何の意味があるのでしょうか? 守ること守らないことで何が変わるのでしょうか?
分別と無分別について詳しく教えて下さい
私は、眉間のほんの少し上に白毛が生えています。 いままで抜けたり生えたりでしたが、最近はぐんぐん伸びて8センチくらいになりました。 ちょっと金色がかってキラキラしてます。 仏様の白毫相のことを知って、ちょうど同じところから生えているので、何だかありがたい気がします。 これは何か意味があるのでしょうか? 修行とかお参りとかしたほうがよいのでしょうか? インターネットなどで自分で調べただけなので、 お詳しい内容をご存知でしたら、お教えいただけないでしょうか。 よろしくお願いいたします。
はじめまして、よろしくお願いします。 折り返しの年齢になり、今までの人生を振り返ってみますと割と波乱万丈の人生だったかな?と思います。 そこで、お聞きしたいのですが。 私たちは生まれてくる場所や環境などを全部自分で決めて生まれてくるという考えは 本当なのでしょうか?
私は仏教徒ではありません。しかし、1つの生きる智慧としての仏教に興味をもち、色々と小さな脳ミソを使い調べてきました。 それで思ったのが、仏教は私に「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」と言ってるのではないか?ということです。 私のような若造でもこれは理解できます。うまくいくことよりもうまくいかないことの方が圧倒的に多いですし、楽しいことより辛いことの方がたくさんあります。 そこで私の中に「ならば、生まれさえしなければいいのでは?」「辛いと分かってるのになぜ子どもを産むのか?」という疑問が生まれました。 言うなれば、辛い世界に「送り込んだ」親は加害者、「勝手に送り込まれた」子供は被害者という構図です。 そこで質問なのですが ・この考えは正しいのか間違っているのか ・間違っているなら、どう違ってるか ・正しいなら、なぜ人間は子どもを産むのか 教えていただきたいと思います。
お願い致します。 仏教では「人生は修行」と、キリスト教では「耐えられない苦難は与えない」と言います。しかし世界には過酷な悲惨な状況下に於いて命を落とす人達が多くいます。赤ん坊や幼い子供であっても容赦のない状況があります。修行でも 耐えられる苦難でも無く 生まれてきた意味さえ見つからないと思うしか無いような。 長い間の疑問です。お教えいただきたくよろしくお願い致します。
仕事や資格の試験で自分を追い込んだらしく、精神疾患を患ってしまいました。 何事も程々にと言いますが、程々にの程度がわかりかねます。自分で見極めることに難儀しております。 お釈迦様のように苦行をすれば中道は見えてくるのでしょうか?お坊様の観点からお返事頂ければ幸いに思います。
素人の私ですが、仏教を学んでみたいと思っております。 何か参考になる書籍やサイト等がごさいましたらご教授いただけませんか? 因みに私の家は浄土真宗です。 日常生活の中に仏教の考えって沢山あるように思えるのです。 よろしくお願い致します。
同居のお姑さんが、家にある人形を毎日拝みます。 商売繁盛や、家族を守ってください、など拝むそうです。 (拝み対象の人形&置物は8体くらいあります) そんな人形は、どこかから買ったり お土産で貰ったりしたもので、かなり昔からあるようです。 狐の置物、大黒天、謎の中国の女性人形、色々あります。 毎朝、結構長い時間をかけて拝んでいます。 自分たちで作った七福神も拝んでる時は拝みます。 我が家には神棚が二つあります。 といってもミニチュア神社みたいなあの木のつくりものは置いていません。 神棚の一つには大黒天のお人形が座っており、神社のお札はその後ろに二枚ほど。ここも拝んでいます。 二階の義両親の寝室の神棚には、また別の神社のお札が二つ。 ここも拝んでます。 玄関には近所の神社のお札。 これも拝んでます。 ・・・・正式な神棚や仏壇がないのに 大丈夫なんでしょうか・・・ さらに、我が家には仏壇はありません。 一応、浄土真宗らしいのですが、お坊さんが来たことはありません。 義父母は長男長女ではありません。 しかし、両方のご両親のスナップ写真を置いた 仏壇代わり?のようなコーナーがあり そこにお菓子などをいつもお供えします。 貰う場合は拝んで「頂きます」をします。 ここも拝みスポットです。 なんだかぐちゃぐちゃでわからないのですが これってどうなんでしょうか・・・・。
仏教でいう六道とはなんですか? 教えてください。
私は40代ですが、小さい頃、こわいことがあっても母にくっついているだけで安心したことを、いまだに覚えています。 「母は万能、母が守ってくれるから安心」という感覚を経て、人はこの世に対して安心感を抱き、成長していくのだと思います。 ところが今の母を見ていると、あれほど万能に見えた存在がまったく万能ではなかったのだということがよくわかります。自分の安心感が、こんな未熟な存在一つに左右されていたのかと思うと、複雑な気分になります。 そして、私自身が幼児の母です。子どもがわたしにすがってくると、もちろん抱きしめて安心させてあげます。でも内心は、自分自身がちっとも安心していなかったり、マイナスのことを山ほど考えていたりするも多々あるんです。 要するに子どもは、私の演技を見て安心し、この世はいいところだと思い、満足しているわけで・・・。 こんなに未熟な私なのに、こんな私を見て安心感を培っているなんて。 馬鹿馬鹿しいとまではいいませんが、虚しいです。茶番劇に感じます。世の中のことがわからなくなってしまいました。 こうしたことについて、仏教の教えではどのように捉えているのでしょうか。 ご教示いただけると助かります。
旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。 「ブッダのことば」で読みましたが、自分よりすぐれた者、ひとしい者とはどういった人間をさすのでしょうか。どう判断するべきなのでしょうか。 そもそも、ひとと自分とを比較して優劣をつけることはすべきでないと思っていましたが、意図する内容が違うのでしょうか。