質問を2回しました。 ありがたいお言葉をいただきました。 それでも寒いです。寒くて震えが止まりません。 体が寒いのか心が寒いのかよくわかりません。 手足が冷たくて靴下を履いても布団にくるまっても温まりません。 とにかく寒いです。 食事もとれていません。食べると吐いてしまいます。 吐くと辛いのであまり食べないようにしていますが、気が付くと大量に食べています。 そして吐きます。 喉の渇きがすごくて水分をとりますがそれも吐いてしまいます。 耳鳴りと目眩で横になっていても眠れません。 横になっていても涙が止まらず眠れません。 気が付くと昼間で何時間か寝れていたようですが、感覚がありません。もうずっと2、3時間くらいの睡眠です。 笑顔になりたいです。元気になりたいです。 私の大切な人は私が笑顔になると笑ってくれます。 大切な大切な笑顔を守りたかったのに、私が笑えません。私が笑うと笑うのに。 笑顔を守りたいのに。一番大事な笑顔です。 いつも誰かのために何かができたらいいなと思っていました。 自分の身近な大切な人を笑顔に出来なくて、いったい誰のために何が出来るのかと自分を嘲笑っています。 助けてください。大切な人のために笑いたい。仕事をしたい、仕事が誰かのためになればもっといい。大切な笑顔を守りたい。誰かの笑顔に繋がるように笑顔が伝染するようにしていたいのに、寒くて震えが止まらなくてどうしようもありません。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
はじめまして。 仏教はなかなか難しいイメージがあり、私自身何か自分でも仏さまの教えにそってみたいなぁ、といつも思っていたりします。 ただ、いつも仕事に子育てにと日々が過ぎて行くだけで、なかなか実行できません。 写経をしたりする人もいますが、そういったこともどのようにするのがいいのか 我が家は曹洞宗のお寺さんにお世話になっていますが、そういう宗派にも疎く、恥ずかしいのですが、宗派など問わず、仏さまに触れる日々の方法などがありましたら、教えてください。 よろしくお願いいたします。
私はアメリカに留学した際に、ホストファミリーに連れられて毎週キリスト教の教会に通っていました。10ヶ月もの間毎週行ってみていましたが、キリスト教やその神を信じているか、と聞かれたら、今もなおその答えは、いいえです。そこで私の、周りの宗教は何なのか、分からなくなってしまいました。 ここで回答してくださっている僧の方々はもちろん仏教徒だと分かるのですが、日本人のどこまでが仏教徒なのでしょうか。何をしていれば、何を信じていれば、そんな基準は、仏教にはあるのでしょうか。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
感情が無い、肉体、つまりただの「物質」になれという事とはまた違うのでしょうか?
御覧頂きありがとうございます。 カテゴリーの判断が難しかったためこちらでお願いいたします。 先程「禁欲」についての記事を見ていたのですが、まとめるとこのような内容でした。 「しんどいことをすれば精神がすり減らされるように、快楽をえて欲を発散する時も精神力が消費される。そのため酒やタバコ、マスターベーションなどを習慣から遠ざけ、欲から離れることで無駄な精神力の浪費を抑えると、やる気が向上したり、運動や習い事や勉強など新しいことを始めたくなったりと、活動的な方向へ向けて精神力を発散したくなる」 これを見たとき、仏教について調べていた時(たしかサイトはYahoo!)の「仏教の教えは楽しいことから離れること。実行すると廃人になるのでは?」という質問に対する「いいえ、欲にとらわれることが減れば、逆に活動的になります。社会的ないい方向へ。」といったような回答を思い出しました。 私の勝手なイメージなのですが、まさに御坊さんは「御坊さん」以外にも色々なお仕事を(お金のためというより、やりたいからという理由で)掛け持ち?されている方が多く、そうでなかったとしても、ごく平均的な社会人より活動的だと感じています。 これはまさに上記の「欲から離れることで社会的な方向へ精神力を発散させたくなる」現象が起こっているのでしょうか? 御坊さんは、この記事の内容のようなことを感じておられますか?
みなさまから今まで頂いたご回答から、仏教は耐えるという教えだ、ということを学ばせて頂きました。 そこでなのですが、苦しみがないよう対策をとる(犯罪対策や、関わったら危険な人へちかづかないなど)ことなどはもちろんした上で、でいいのですよね? 例えば目の前に水があり、喉がかわいたらのむ、これでいいのですよね。のまずに喉のかわきにたえる、という教えではなく。ただ「ここには水しかないの?ジュースがいいのに」などの不要な欲から離れる、ということでいいでしょうか。
この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします 最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・? どちらを信じればいいかわからないのですが なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました そしてある疑問にぶつかりました お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね? そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった それなのになぜ人々を救おうとするのですか? 人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか? 五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり 人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね? たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても 涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね? それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか? お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください
hasunohaのお坊様方 いつも素晴らしい回答をありがとうございます。私は離婚のショックから電話占いに大金を使ってしまいこちらに相談させていただきました。三浦様に回答を頂きまして今度こそ電話占いをやめられると思っています。また悩みは違えども他の相談のお坊様の回答を読み進めていくうちに離婚したことでの喪失感なども薄れていき元気もでてきました。 仏教の力とはすごいものですね。こんなにも人を元気にする力があるんですね。hasunohaに感謝です。そして無償で参加してくださっているお坊様に心からお礼申し上げます。 私は貧困から抜けだし自分の収入だけで生きていけるようにすることが目標です。 仏教を勉強してみたくなりました。またお遍路もしてみたいです。仏教のおすすめの本 お遍路について教えて下さい。お遍路というのは88かしよ 全て回るものなのか 期間はどれくらいかかるものなのか 一部車を使っていいものなのか 一人で巡ってもいいのかなど全くわかりませんのでよろしくお願いいたします。
御朱印を頂きに行き、賽銭を入れようかと思い境内を見回しても賽銭箱が無いお寺さんがあるのですが、そういった場合はどのようにした方が良いのでしょうか? また「御朱印を頂きたいんですけど」とお尋ねしたら、「住職の方は、今、手が離せないです。」とお断りの言葉が返ってきました。 しかも、その日は丁度、お昼時で御迷惑だったのでしょうか?
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「他者を助けること」について教えて頂きたいです。 仏教では相手の苦しみを理解し取り除くという慈悲がありますが、どれくらいの意気込み(?)のものなのかよくわかりません。 例えば、困ってる人が近くにいたらできるだけ力になろうと努力する、というくらいなのか 、自分のことを後回しにしてでも助けようとするのか、全てを投げ捨ててでも助けるものなのか、死を覚悟してでも助けるのか…… 仏教ではどのように説かれていますか?よろしくお願いいたします
以前に親の事でご相談しましたがその際に、浅はかだ、最低だ、愛情は無いなど、親に対する誹謗を書き連ねました。正直な気持ちとはいえ少々言い過ぎな気がして窘められるのではと思いましたが、それに対してのお言葉はありませんでした。 また他の方の投稿を拝見していますと、親とはいえ所詮は他人、親から離れなさい、とアドバイスされているお坊さまがいらっしゃいました。 宗教に限った事ではないですが、先祖や肉親の関係は大事にして然るべきものと思っていましたので、意外な気がします。(私自身の事は横に置かせていただきます(汗)) 仏教では親兄弟など肉親を、どう捉えるのでしょうか。
ここには沢山のお坊様がいると聞いたので見参しました よろしくお願いします では早速質問 仏教の基本の教えは釈迦様が説いた右でもない左でもない上でもない下でもない中道で その位置にこそ美しい琴の音を響かせる軸の位置があるという考えですよね でも仏教の教え自体が中道の位置からずれてる気がします たとえば教えの一つである因果関係とは良いことをすると良いものが返って来ることですよね でも本当に良いことをすると良いことが返って来るのか?答えYESだったりNOだと中道の位置の考えから右や左や上や下にずれてしまうのでは・・・ 同じように煩悩をなくして無になれば苦から逃れられるという教えも 本当に煩悩をなくして無になれば苦からのがれられるのか?答えYESだったりNOだと・・・ このように仏教の全ての教え自体がYESとNOに偏ってて釈迦様の基本の教えである中道の考えからずれてる気がします もしかしたら私自身が白痴であり中道の考えやお釈迦様の考えをよく理解してないのかもしれないかもしれません もしそうでしたら誰か教えてください
はじめまして、瑠璃と申します。 私は子供が大好きで、また、子供を育てる全ての方々を尊く思います。 しかし、私は生きることは苦であるということを徹底的に思い知ってしまっため、子供を産もうと思いません。 そして、子供を産む意志が無いことを結婚を前提にお付き合いさせていただいている方にお伝えしたところ、私との別れを考えているようです。 私は、生きることが苦であると知って安心しました。 煩悩を捨てる、お釈迦様の道を歩みたいです。 それなのに、まだ少し、お別れは辛いです。 お知恵を拝借出来たらと思います。 よろしくお願い致します。
悩みは実家の事です。 三年前に両親が亡くなり兄弟三人(兄二人)で遺産分割をしたのですが、私が実家を相続したのですが、雪が降る地域のため、持ってるだけで経費がかかるため売りに出してるのですが、先祖代々の仏壇とお墓、檀家にもなっています。 次男の兄は神奈川県に居るのですが嫁さんも三年前に亡くして仏壇とお墓を買いまして、『実家が売れたら実家の佛事はこっちに移してもいいよ。』と言ってくれたのですが、実家のお寺が今年、永代供養を建てると言ってまして正直迷ってます。先祖代々としては無くさないのが一番だと思いますが実家を受け継ぐ者も居ない今後どうしたら良いのでしょうか? ※長男とはいろいろあって絶縁状態なので、帰る事はありません
問5366 を拝見して、思い出したのです。 http://hasunoha.jp/questions/5366 既にいったん行き詰まった、混乱した者には、何かちょっと、持たせてやらねばと思ってしまうのです。 その上つい説き【すぎて】しまうのは、全く己の弱さのなせるところなのですが。 かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 支持以上の、なにか実践的きっかけのようなものが、必要だったのです。 そういえば、対機説法というそうですが(問1099ほか)、釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。 思索の深まる答を欲します。
「他力本願」という言葉を、先日法事でのお説教で聞きました。とてもありがたい考え方だなと思ったのと同時に、少し腑に落ちないところもありました。 現代人のためか、「自分で努力して得た結果は自分の功績」という考え方が自分でも世間でも当たり前のようになっています。支えてくれる周りの環境や近しい人々の支えがあってこそという考えももちろんわかりますし、それがなければ絶対一人では何一つできないだろうと自分でも実感があるのですが、自分で何かをしたことも紛れもない事実なのに、それをまるでなかったことのようにしてしまうととてもがっかりすると思います。ひどい時は卑屈になることもあります。 他力本願という考え方をちょうどよく受け入れていくために、「自分自身」というものと「自分の行い」とをどのように折り合いを付けて考えていけばいいのでしょうか。心構えのようなものを伺いたく存じます。よろしくお願いいたします。
最初の質問は、言葉足りずでしたのでもう少し付け加えます。 法名を頂いた当時は浄土真宗でした。 ずっとそうしていたかったのですが事情があって 転居をする事になり、ご住職さまにも事情を話しご理解を頂いております。 近くに同じ宗派がなかった事もあり今のお寺さまにお世話になる事となりました。