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仏縁

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有り難し有り難し 54

(ー人ー)
仏縁の定義を教えてください。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

これを仏縁にするのがあなた

どんな事もすべて縁。
「縁」でないものはない。
今や時代はシビアで¥(円)でなけりゃ、関われないものも多いですが、関われなかったという事を学ぶのもまたご縁。あ、当サイトは無料、無¥です。有り難し。
縁は永遠に続くからエンドレス。
何もしなくとも、自分が色々なものと関わり合っているから、裸の王様もビックリな縁ドレスをみんながまとっている。
永遠にエンエンに続くもの。
縁は関わり、つながり、きっかけ、作用、条件、働きかけ。
私がこうして答えればそれがまた誰かの働きかけになり、何かが変わる。
ただし、仏縁とは、ただの関わり合いではない。
その人をして、正覚、悟りに導く縁でなければならない。
故に、自分を苦しめ煩悩や過剰な自己意識を薄めて、より良い安楽な心に導くもの。
それが仏縁と言えます。
濃度の薄い仏縁はお寺でのお詣り。
濃度の濃い仏縁は当山の坐禅会でやっているような提唱、法話。ズバリ人をして、思いの世界から抜け出させて、無為無我の仏心に導くもの。
それが濃縮された仏縁です。
さて、今度は私からあなたに質問。
今日は節分。
赤オニとは怒りや恥じらい、嫉妬の気持ち。顔が赤くなることを言う。
青オニとは恐れや不安、ネガティブな気持ち。顔が青ざめる事を言う。
そのあなたの心の中の鬼を、一生よりつかないように追い払うにはどうすればよいか。
それを考えなさい。
それがあなたをして仏(正覚者・悟りを得るもの)に導く確実な仏縁となる。
あなたにとっての仏縁が何か。それが最高の答えだ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「縁なき衆生は度し難し」

あかり様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「縁なき衆生は度し難し」・・

仏教、仏法を学び修するご縁が無ければ、悟り・涅槃へと至れるのは難しいという内容の言葉でございます。

「仏縁」とは、「仏様の教えを真摯に学び修する機会・機縁」になるのではないかと存じております。

仏教では、この世における全てのモノ・コトは、因縁(原因と条件)に依りて変化し、無常であると考えます。

確かなる因縁が調ってこそにおいて、様々な結果が出る、またその結果も何かの因や縁となりて、更に結果へと至る、更に・・ということにて、悟り・涅槃も、悟り・涅槃へと至るための因縁無しでは、至れることはありえないものとなります。

「仏縁」を確かに、悟り・涅槃へと至るための因縁をしっかりと調えていくことが大切になります。

特には、

因=「堅固なる菩提心の発心」
縁=「智慧と福徳(方便・功徳)の資糧」

が必要になるかと存じます。

仏様と供に、皆と供に、悟りへの因縁をしっかりと養って、悟りへと至れるように頑張って仏道を歩んで参りましょう。(供養)

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

様々に広がる仏門に同じく、私の心も広がりました。
(ー人ー)南無妙法蓮華経。

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