御覧頂きありがとうございます。 カテゴリーの判断が難しかったためこちらでお願いいたします。 先程「禁欲」についての記事を見ていたのですが、まとめるとこのような内容でした。 「しんどいことをすれば精神がすり減らされるように、快楽をえて欲を発散する時も精神力が消費される。そのため酒やタバコ、マスターベーションなどを習慣から遠ざけ、欲から離れることで無駄な精神力の浪費を抑えると、やる気が向上したり、運動や習い事や勉強など新しいことを始めたくなったりと、活動的な方向へ向けて精神力を発散したくなる」 これを見たとき、仏教について調べていた時(たしかサイトはYahoo!)の「仏教の教えは楽しいことから離れること。実行すると廃人になるのでは?」という質問に対する「いいえ、欲にとらわれることが減れば、逆に活動的になります。社会的ないい方向へ。」といったような回答を思い出しました。 私の勝手なイメージなのですが、まさに御坊さんは「御坊さん」以外にも色々なお仕事を(お金のためというより、やりたいからという理由で)掛け持ち?されている方が多く、そうでなかったとしても、ごく平均的な社会人より活動的だと感じています。 これはまさに上記の「欲から離れることで社会的な方向へ精神力を発散させたくなる」現象が起こっているのでしょうか? 御坊さんは、この記事の内容のようなことを感じておられますか?
みなさまから今まで頂いたご回答から、仏教は耐えるという教えだ、ということを学ばせて頂きました。 そこでなのですが、苦しみがないよう対策をとる(犯罪対策や、関わったら危険な人へちかづかないなど)ことなどはもちろんした上で、でいいのですよね? 例えば目の前に水があり、喉がかわいたらのむ、これでいいのですよね。のまずに喉のかわきにたえる、という教えではなく。ただ「ここには水しかないの?ジュースがいいのに」などの不要な欲から離れる、ということでいいでしょうか。
この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします 最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・? どちらを信じればいいかわからないのですが なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました そしてある疑問にぶつかりました お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね? そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった それなのになぜ人々を救おうとするのですか? 人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか? 五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり 人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね? たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても 涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね? それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか? お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください
hasunohaのお坊様方 いつも素晴らしい回答をありがとうございます。私は離婚のショックから電話占いに大金を使ってしまいこちらに相談させていただきました。三浦様に回答を頂きまして今度こそ電話占いをやめられると思っています。また悩みは違えども他の相談のお坊様の回答を読み進めていくうちに離婚したことでの喪失感なども薄れていき元気もでてきました。 仏教の力とはすごいものですね。こんなにも人を元気にする力があるんですね。hasunohaに感謝です。そして無償で参加してくださっているお坊様に心からお礼申し上げます。 私は貧困から抜けだし自分の収入だけで生きていけるようにすることが目標です。 仏教を勉強してみたくなりました。またお遍路もしてみたいです。仏教のおすすめの本 お遍路について教えて下さい。お遍路というのは88かしよ 全て回るものなのか 期間はどれくらいかかるものなのか 一部車を使っていいものなのか 一人で巡ってもいいのかなど全くわかりませんのでよろしくお願いいたします。
御朱印を頂きに行き、賽銭を入れようかと思い境内を見回しても賽銭箱が無いお寺さんがあるのですが、そういった場合はどのようにした方が良いのでしょうか? また「御朱印を頂きたいんですけど」とお尋ねしたら、「住職の方は、今、手が離せないです。」とお断りの言葉が返ってきました。 しかも、その日は丁度、お昼時で御迷惑だったのでしょうか?
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「他者を助けること」について教えて頂きたいです。 仏教では相手の苦しみを理解し取り除くという慈悲がありますが、どれくらいの意気込み(?)のものなのかよくわかりません。 例えば、困ってる人が近くにいたらできるだけ力になろうと努力する、というくらいなのか 、自分のことを後回しにしてでも助けようとするのか、全てを投げ捨ててでも助けるものなのか、死を覚悟してでも助けるのか…… 仏教ではどのように説かれていますか?よろしくお願いいたします
以前に親の事でご相談しましたがその際に、浅はかだ、最低だ、愛情は無いなど、親に対する誹謗を書き連ねました。正直な気持ちとはいえ少々言い過ぎな気がして窘められるのではと思いましたが、それに対してのお言葉はありませんでした。 また他の方の投稿を拝見していますと、親とはいえ所詮は他人、親から離れなさい、とアドバイスされているお坊さまがいらっしゃいました。 宗教に限った事ではないですが、先祖や肉親の関係は大事にして然るべきものと思っていましたので、意外な気がします。(私自身の事は横に置かせていただきます(汗)) 仏教では親兄弟など肉親を、どう捉えるのでしょうか。
ここには沢山のお坊様がいると聞いたので見参しました よろしくお願いします では早速質問 仏教の基本の教えは釈迦様が説いた右でもない左でもない上でもない下でもない中道で その位置にこそ美しい琴の音を響かせる軸の位置があるという考えですよね でも仏教の教え自体が中道の位置からずれてる気がします たとえば教えの一つである因果関係とは良いことをすると良いものが返って来ることですよね でも本当に良いことをすると良いことが返って来るのか?答えYESだったりNOだと中道の位置の考えから右や左や上や下にずれてしまうのでは・・・ 同じように煩悩をなくして無になれば苦から逃れられるという教えも 本当に煩悩をなくして無になれば苦からのがれられるのか?答えYESだったりNOだと・・・ このように仏教の全ての教え自体がYESとNOに偏ってて釈迦様の基本の教えである中道の考えからずれてる気がします もしかしたら私自身が白痴であり中道の考えやお釈迦様の考えをよく理解してないのかもしれないかもしれません もしそうでしたら誰か教えてください
はじめまして、瑠璃と申します。 私は子供が大好きで、また、子供を育てる全ての方々を尊く思います。 しかし、私は生きることは苦であるということを徹底的に思い知ってしまっため、子供を産もうと思いません。 そして、子供を産む意志が無いことを結婚を前提にお付き合いさせていただいている方にお伝えしたところ、私との別れを考えているようです。 私は、生きることが苦であると知って安心しました。 煩悩を捨てる、お釈迦様の道を歩みたいです。 それなのに、まだ少し、お別れは辛いです。 お知恵を拝借出来たらと思います。 よろしくお願い致します。
悩みは実家の事です。 三年前に両親が亡くなり兄弟三人(兄二人)で遺産分割をしたのですが、私が実家を相続したのですが、雪が降る地域のため、持ってるだけで経費がかかるため売りに出してるのですが、先祖代々の仏壇とお墓、檀家にもなっています。 次男の兄は神奈川県に居るのですが嫁さんも三年前に亡くして仏壇とお墓を買いまして、『実家が売れたら実家の佛事はこっちに移してもいいよ。』と言ってくれたのですが、実家のお寺が今年、永代供養を建てると言ってまして正直迷ってます。先祖代々としては無くさないのが一番だと思いますが実家を受け継ぐ者も居ない今後どうしたら良いのでしょうか? ※長男とはいろいろあって絶縁状態なので、帰る事はありません
問5366 を拝見して、思い出したのです。 http://hasunoha.jp/questions/5366 既にいったん行き詰まった、混乱した者には、何かちょっと、持たせてやらねばと思ってしまうのです。 その上つい説き【すぎて】しまうのは、全く己の弱さのなせるところなのですが。 かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 支持以上の、なにか実践的きっかけのようなものが、必要だったのです。 そういえば、対機説法というそうですが(問1099ほか)、釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。 思索の深まる答を欲します。
「他力本願」という言葉を、先日法事でのお説教で聞きました。とてもありがたい考え方だなと思ったのと同時に、少し腑に落ちないところもありました。 現代人のためか、「自分で努力して得た結果は自分の功績」という考え方が自分でも世間でも当たり前のようになっています。支えてくれる周りの環境や近しい人々の支えがあってこそという考えももちろんわかりますし、それがなければ絶対一人では何一つできないだろうと自分でも実感があるのですが、自分で何かをしたことも紛れもない事実なのに、それをまるでなかったことのようにしてしまうととてもがっかりすると思います。ひどい時は卑屈になることもあります。 他力本願という考え方をちょうどよく受け入れていくために、「自分自身」というものと「自分の行い」とをどのように折り合いを付けて考えていけばいいのでしょうか。心構えのようなものを伺いたく存じます。よろしくお願いいたします。
最初の質問は、言葉足りずでしたのでもう少し付け加えます。 法名を頂いた当時は浄土真宗でした。 ずっとそうしていたかったのですが事情があって 転居をする事になり、ご住職さまにも事情を話しご理解を頂いております。 近くに同じ宗派がなかった事もあり今のお寺さまにお世話になる事となりました。
浄土真宗のお寺でお世話になっておりました。 西本願寺でおかみそりを受け、法名を頂いておりますが、訳あって他宗の檀家になりました。 自分が亡くなると頂いてある法名から「釈」のみ省かれるのでしょうか?
御朱印を頂きにお寺さん周りや神社さん周りをしています。 住職さんや宮司さんは迷惑なのでしょうか? また、今、ひそかな御朱印ブームですが、住職さんや宮司さんはどのように思っているのでしょうか?
言いたくありません。喧嘩になるから。 我慢して、私が片付けます。それで丸く収まるので。 黙って掃除します。けど、毎日同じことをして汚されます。最初は 気をつけてほしいとお願いしましたが直りません。 「仏のような心になれ」といわれます。 正直、私も感情を持った人間に生まれました。お金をもらって、妻や母をしているわけではありません。 仏のような心になるなんて可能なのでしょうか?
良い行いをすると自分自身にも良い事がおこると聞いたのですが本当ですか?また理由というか仕組みも教えていただければ幸いです
和尚様方、おはようございます。 前回の質問で、私に仏教の勉強をしてみてはどうでしょうとの回答をありがたくも頂きました。 そこで今回は仏教を学ぶにはどうしたらよいのかというのを、質問させていただきたく、もう一度やって参りました。 通信教育、大学で学ぶ、こういう選択肢しか私には解りません。 宜しければご回答頂きたいです。
以前、法座で冥福の冥は、暗闇の世界だから適切ではないと伺っております。テレビを見ていると泣くなった人に対して、アナウンサーは必ずと言って良いほど「ご冥福をお祈りします」と言っています。その度に違和感を感じてしまいます。 身内を亡くしているので、余計に感じます。 もちろん、言っている人は悪気はないのは承知していますし、間違っていると言う訳でもないのかなと。しかし私は、「お悔やみ申し上げます」を心がけています。 ずっと気掛かりだったので教えて下さい。
私は実家は裕福ではありませんでしたが、両親が働き者で、レジャーや自分のことを後回しにしても、子供のためにお金を使ったり、子供のために貯金する人でした。 おかげで、お金には不自由を感じずに育てられ、裕福でもないのに高校、大学と私立に通わせてもらいました。 当時はもっと家族でレジャーしたり、親が自分のためにお金使ったらいいのに、と思っていましたが、とても感謝しています。 今、私も結婚し、子供がいます。 両親の影響からか、私も自分のために使う分があるなら、子供のために使ったり、残そうと思うようになりました。 今では両親の気持ちがよく分かります。 子供ができて初めて、自分よりも何倍も大事に思える存在、愛しい存在があることを知り、子供のために尽くすのがむしろ幸せと思うようになりました。 長くなりましたが、そんなことを思うようになり、仏教では親子とはどういうものとして考えられているのか気になりました。