真面目な質問ばかりの中、くだらない内容ですいません。 もしかしたら仏教の質問ですらないのかも知れませんが。 私は茨城県在住なのですが、車で1時間少々の距離に 不動明王様をご本尊とする、真言宗系の 有名な仏教寺院があります。(千葉県成田市) しかし最近、同僚から「あそこはカップルで行くと別れる。 家族で行くと夫婦仲が悪くなる」と聞きました。 何かと思ってネットで検索したら、入口付近に弁天堂があるので、 弁財天様がカップルに嫉妬して別れさせるのだそうです。 同じようなスポットは全国各地にあり、東京の某公園も弁財天様の からみで破局スポットとして有名です。 特に2人でボートに乗ったら別れるとか・・・ 俗信や迷信の類でしょうが、よく考えたら 弁財天様(サラスバティー)って、ヒンズー神話では梵天様(ブラフマン)の お妃様ではないのでしょうか? これ以上望めないような夫君が居るはずなのに、ネット情報曰く 「弁財天はいつも七福神達と一緒なので出会いが無く、 独り身の為にやきもちを焼く」との事。そんなバナナ。 吉祥天様(ラクシュミー)にしてもヒンズー神話では那羅延天様(ビシュヌ)の 妃のはずが、仏教(日本?)では毘沙門天様の妻君になってます。 インドでは優しい夫婦神なのに、仏教では武神の妻。 なにかしっくり来ません。 夫婦揃ってるのは大自在天様(シヴァ)と 妻の烏摩妃様(ウマー)くらいです。 もっとも、彼らは降三世明王様に踏みつけられる役ですが・・・ ヒンズー教と仏教で配偶神が変わっているのは、 何か教理的な意味があるのでしょうか? それとも、ヒンズーの神様と仏教の天部神様は 別人格(別神格)と考えるべきなのでしょうか?
今注文していた小さい御仏像が届きました。赤い巾着袋が付いていて八角鏡ミラーステッカーも同封されていました。子年生まれの私なので千手観世音菩薩でした。キリスト教では聖具を購入したら神父様に祝別して頂かないとダメなのですが、御仏像の場合はどうなのでしょうか?主人とワンコ達の為に購入しました。
余りに辛くて悲しくて仏様にお守りください、南無阿弥陀仏と唱えようとしても涙で喉が詰まってしまう事しばしばです。 一昨年倒れてから(二親と妹は自殺未遂と診断?しましたが日赤ではウイルス脳炎と診断されました)主人は朝と晩電話してきます。ラブラブとかではなく切羽詰まっていて私の声を聞きたいからです。泡を吹いて倒れていた私を主人は見ているので声を聞かないと不安なんだそうです。メールやラインは他の人でも送れるからねと言っていました。 こんなに心配をかけている私は生きていていいのでしょうか?慌てて頭を振って否定しますけど二親と妹は私を死に損ないの疫病神と言いましたがその言葉が頭の中に響く事があります。悲しくなります。怒られるのを覚悟で言いますが、仏様私の命を絶って下さいと言ってしまう時もあります。でもその後必ず私主人に申し訳ないなんて言っているけど苦しみや辛さから逃れたいが為に口先だけじゃないのかと思う時もあります。 御坊様、お休みなのに御免なさい。もう真っ暗闇で雷の一筋の光もありません。もう自分はどうでもいい、主人とワンコ達が幸せになってくれれば十分です。ワンコ達も私にまとわりついて、すがるような眼で見ます。こんな事今までなかったのですが。仏様には、主人とワンコ達の命を原告達からお守り下さい、幸せにして下さいと祈っています。
街のお地蔵さんの拝み方を教えてください。 いつもは、 二つ立ててある使いかけの蝋燭の1本に火をつけ、その火を使って2本に折ったお線香を火をつけ、蝋燭はすぐに消す →今日も見守ってくださってありがとうございますとお礼を言って悩みを聞いてもらう の順序で拝んでいましたが、 このやり方では失礼がありますか? ゴミ捨て場の目の前なので火事にならないようにと思ってそうしていました。 そもそも、いわれも分からない街のお地蔵さんを拝むのは良くないのでしょうか? 教えてください。
いつもお世話になっております。 諸経典に、「法身、報身、応身」「自性輪身、正法輪身、教令輪身」などと記載がありました。 ✳︎ その中の、阿弥陀如来の三輪身、三輪応身(どう違う…?)について、一説には 「阿弥陀仏→文殊菩薩→大威徳明王」、 もう一説には 「阿弥陀仏→白衣観音(うろ覚えですが…)→馬頭明王」とありました。 ✳︎ 私の本山でも、祈願殿に馬頭観音様をお祀りしています。馬頭観音様は一説によると、 競馬場などにお祀りされて動物の供養、回向の本尊とされているそうです。 ✳︎ なぜ、阿弥陀様は分岐しておられるんでしょうか。それと、「輪身」「輪応身」も違うんでしょうか。教えていただけたら幸いです。
お寺や仏像を見ることが好きで、心が落ち着きます。(お墓参りもおなじです) いつも思うことですが、お寺(神社もそうですが)金色を施しているものが多く見かけます。お守りも赤や金色をつかっていますが、何か意味はあるのでしょうか? 仏像を見ると心が落ち着き昔の方の、こと(どうやって作られたのだろうか。とか)を思い浮かべて拝見させてもらってます。
いつもお話を聴かせていただきありがとうございます。 毎日読ませていただいてます。 今回、2回目の質問です^^ 私が生まれ育った実家は限界集落で買い物も車で1時間程 かかる山の中です。 私が5歳くらいの頃の話なのですが、虫歯が痛くなる度に、 おばあちゃんが泣く私をオンブしては遠くのお地蔵様にお参りに 連れていってくれていました。 自分の記憶の中では通称「トンネルのお地蔵さん」です。 結構な坂道で軽く片道徒歩40分くらいはかかったと思います。 祖母は30年前に亡くなりました。 以来、「おばあちゃんはオンブして連れていってくれたんやね・・・重たかったやろね・・・」という会話を実家で毎回の様にしていて、 最近、そのお地蔵様にお礼のお参りをどうしてもしたいという 気持ちが急にズンズン湧いてきて今年の5月に行ってきました。 実は20年ほど前に新しいトンネルができ、そのお地蔵様は 新しい車道から上の部分にあり、新車道からやっとこさ 見える程度の場所にありました。 車を降りて苔だらけの今にも滑りそうな道をかけ上がって行くと お地蔵様らしき?陰を発見。 山の中なので昼間でしたが真っ暗でした。 やはり誰も足を踏み入れていない様子でお地蔵様の上には 大きな折れた木の枝等が覆い被さり、山肌も崩れ、 お地蔵様自体はやっとこさ木の根っこがあればこそ倒れないで どうにか立っておられた・・・という感じでした。 いつ崩れてもおかしくないくらいでした。 木や落ち葉や土をよけると、いつお供えされたか分からないような 缶ジュースとコップが埋もれていました。 こんなお姿になって忘れていて放りっぱなしでごめんなさいと 我を忘れて出来るだけきれいにしました。 そして子供の頃のお礼と、ずっと来なかったお詫びを言い、 ろうそくとお線香をお供えしてきました。 実家に着き、父に話すと「誰も行かないよ」と。 集落の人も誰も何十年も行っていないそうです。 父親もずっと昔からあるお地蔵様なのでどのように お祀りされていたかさえ詳しいことは全く分からない様で。 そして先日、お盆に帰った時に車で前を通ったらお地蔵様が こちらを見ていました(暗く茂った山林の中、お地蔵様だけ浮いて見えた感じとでもいうのでしょうか) お地蔵様は何を思い今、そこに居られるのでしょうか?
阿弥陀様、観音様、仏様の皆様。 沢山の辛く悲しく悔しい試練の多い私の人生ですが、夫に巡り会わせてくださって本当にどうもありがとうございます。 合掌
今回はお経について質問が三つあります。 1.『浄土宗のお経』という本を読んでいます。初心者向けの本です。毎日のおつとめで読まれるお経が収録されています。懺悔偈のところで、「普賢菩薩が毘盧遮那仏の前で〜過ちを反省して、許しを請う偈文」と説明されているのですが、普賢菩薩が毘盧遮那仏に許しを請う、というのはどのようなエピソードでしょうか?普賢菩薩といえば、智恵を司り、白い象に乗ったクールなイメージなので、意外に感じて伺う次第です。また、毘盧遮那仏、普賢菩薩、阿弥陀仏はどのような関係にあるのでしょうか? 2.法要の時に「サンバラ〜サンバラ〜」と聞こえることがあるのですが、何というお経の一節かお心当たりがありましたら、教えてください。上記の『浄土宗のお経』を「サンバラ〜」と読めそうなところに注意して見てみたのですが、それらしいところが見つからないのです。 3.今度七回忌があるのですが、そこで読まれるお経とその順序は「浄土宗勤行式次第」と同じでしょうか?法要で読まれるお経が聞き取れるようになりたいです。 教えていただけるとありがたいです。よろしくお願い申し上げます。
前回の質問より弘教寺 小林覚城 様 より御回答いただき、浄土真宗の『信心をいただく』ということにつきましてネットで調べて読みました。 真の仏様をいただくとは、自分自身では自分を救うことが出来ないため、仏様というお鏡を通じて己の愚かさを知り、煩悩を煩悩と理解することでそこから解放される と言った理解で正しかったでしょうか。 罪を犯して尚生きることは苦しいですね。 南無阿弥陀仏 合掌
はじめまして。 宜しくお願い致します。 私の実家にはお地蔵様がおられます。 もともとあったというものではなく 昔、母から聞いた話しだと(うろ覚えなのですが)結婚を機にこの土地(敷地)に住むことになった頃、祖父から『お前が守っていきなさい』と お地蔵を与えられた?と聞きました。 母には長生きして欲しいのですが やはり高齢になってきたこともあり お地蔵様をこれから誰がお守りしていくか と言うような話題になることがあります。 我が家は全員女姉妹で皆、結婚して家を出ております。 朝は必ずお経を唱え信心深い母のお蔭で私達姉妹もお地蔵様にお守り頂いていたように思います。なので大切にしていきたい気持ちは十分にあります。 母は父方の家族のことをとても嫌っており 同じお墓には絶対入りたくないと申しております。私は母の気持ちに沿いたいと思います。 そんな中、私の思いつきなのですが罰当たりなことなら教えて頂きたいのですが 母が亡くなったら、お地蔵様を母の墓石としても大丈夫でしょうか? 母に話した所、そうして欲しいと言われましたが何かよくないことかも知れないと言う気持ちもあるので、ご相談させて頂きました。 どうぞご指導宜しくお願い致します。
いつもお世話になっております。 今通っているお不動さんではパワーみなぎる護摩の後、優しい 語り口でお坊さんがお話をしてくださいます。 * 「皆様の願い事が『きよらか』な願いとなったとき、 お不動様は陰の形のごとくそっと皆様に寄り添って、身の回り の世話をするがごとく皆様を守ってくださいます…」 「お不動様は私たちが間違った方向、『らくな方向』に 進もうとしたとき、こら!!と叱ってくださいます」 お坊さん、そしてお不動様のおっしゃる「きよらか」 「間違った楽な方向」とはどんな状態を指すのでしょうか。 あえて自分を痛めつけ、苦しめろ、という事ですか? * そして、自分の後ろめたいことに過敏に反応し、すぐに べそをかいたりイライラしてしまう私を、お不動様は どんな眼差しで見ておられるのでしょうか。 お教え願えればと存じます。よろしくお願いいたします。
同じ仏様でも、お寺や宗派が異なると別人なのでしょうか? 別人は極端かもしれませんが、それぞれのお寺や宗派によって、異なったご縁があるのでしょうか? 例えば浄土宗で開眼した阿弥陀様に、真言宗の阿弥陀様のご真言を唱える。 京都のお寺で願かけをして、かなった願いごとのお礼参りを、東京の同じ仏様が祀られているお寺で行う。 ご本尊と脇侍の仏様の開眼を別のお寺で行う。 どこかチグハグに感じてしまいます。 別人は極端でしょうが、そこはやはり分けて考えるべきでしょうか。 お坊様がたのご意見をうかがえたら幸いです。
仏像は開眼(魂入れ?)をしなければ、ただの人形、置物と聞きました。 それで土産物の観音様や大黒様の像は部屋のインテリアにしても、問題無いと聞きました。 ところが仏壇を新調した時に、ご本尊の後に脇侍の像を新しく入れました。 ご本尊はもちろん開眼しているのですが、脇侍はまだです。 この場合、脇侍は仏壇の飾りに過ぎず、やはり開眼の供養を行なった方が良いのでしょうか? ある人(在家)の意見では、「ご本尊様であっても、開眼供養をしなくても、毎日勤行をきちんと行えば、開眼したに等しくなる」と言うのですが、そうなのでしょうか? ご教示頂けましたら幸いです。
以前、何度か質問させていただきました。 私は信仰心が強く、仏様を信じています。 でも、祈って病気が治るならみんな死なない と言うようなご回答をいただきました。 ごもっともだと思い、見返りを求めていた 自分を反省しました!そして私は心配性です。 別の質問をしたとき、仏様を信じているから このままではいけないと、仏様がハスノハへ 導いてくださったのです。とご回答を いただきました。携帯を変えたので質問が 残っているかは確認してません。 このハスノハでたくさんのことを勉強 させていただきましたが、結局物事は なるようにしてなり、起こるべくして起こり、 現実をどう受け止めるか。なのかなと。 仏様を信仰しているのはただ人が仏様を 信仰することでいいことをした気分になり 救われるような気がするからで、 その後いいことや悪いことが怒っても 仏様の力でもなんでもなく、ただ起こるべく して起こっただけなのかなと思うようになりました。私は祖母に小さい時から仏様に 手を合わせなさい、朝起きたら朝日に向かって 手を合わせ世の中の人の平和を祈りなさい、 そうすると心が穏やかになるんよと 言われて、できるときはそうしてきました。 小学生でひいおばあちゃんが亡くなり、 ショックで落ち込んでいると般若心経を 覚えなさいと言われ、毎日写経しました。 何年か経ち、私が祖母の部屋でなんとなく 写経していると、もう1人のひいおばあちゃんが 亡くなったと連絡がきました。 私が写経している間に眠るように亡くなった そうで、祖母が、ひ孫のお経で逝ったんやね と言っていました。他にも亡くなった人や 仏様との結びつきを強く感じることが 小さいころからたくさんありました。 その度に私は感謝し、手を合わせました。 つらいことが怒っても仏様なんかいない! とは思ったことはなく、どう乗り越えるか 私が強くなるための試練を与えて下さってる と信じて超えてきました。 でもハスノハで仏教のことを いろいろ教えていただきましたが、 現実を見せられた気持ちになりました。 仏様なんか!とかではありません。 私が信じてきた仏様はいないのですか? 人が勝手に仏様と結びつけているだけで。 そう思うと、手を合わせる意味がわからなくなってしまいました。仏様なんか!とかそうではなく、純粋に混乱しています笑 複数ご回答いただけると嬉しいです!
私は浄土宗の檀家です。 お仏壇も阿弥陀様を主役におまつりし、毎日「阿弥陀経」を読誦し、発願文を読み、お念仏を100回唱えております。 しかしお不動様と大黒様も大好きで、阿弥陀様とは別に個人的な持念仏として、毎日勤行しております。 浄土宗のお寺にもお不動様をお祀りしている寺院もあること、個人的に尊敬している祐天上人がお不動さんと縁のある方であったこと。 またお不動さんを開眼してくださった密教系のお寺でも「阿弥陀様と共に信仰しても構わない」とアドバイスをいただいたことから、問題無いと考えていたのですが・・・ しかし法然上人のご著書を読んだところ、専修念仏では雑修(お念仏以外の仏道修行)は行わない方が良いと書かれていました。 阿弥陀様以外の仏様に浮気をする雑修は、往生の妨げになると。 (真宗では特に厳しく、阿弥陀様以外の仏様は、原則祀らないと聞いております) しかし家の菩提寺の浄土宗のお寺では、お地蔵様や聖観音様、馬頭明王様も祀られています。 (菩提寺とは遠方に住んでおり、ご住職とはほとんどお話しできません) 浄土宗は、本当のところ、雑修をどう考えておられるのでしょうか? ご意見をいただけましたら、幸いです。
こんにちは 昔から気になっていることがあります。 おじいちゃんは仏教でどこどこの、等は分からないのですが、昔は毎日南無阿弥陀仏なお経を筆で書いて読むことをしていたので…そんな感じの仏教です。 その仏教の本?みたいなもので、小さい頃 私の生年月日等調べて、千手観音様が見てくれてる。と言われて、ピンとこなかったんです。 手がすごいあることは知っています。 私の厚い唇を神様もそんな感じの口してるから すごい神様見てくれてるって!私にぴったりだな!みたいなことを言われた気がします。 でもそれは見てくれている、のか守護神なのか、 なんなのか今になって気になってしまいました。 おじいちゃんは今少しボケつつあるので当時のことをあんまり覚えてないです。 その…生年月日で調べれる神様みたいなのは占いなんですかね…?? ご存知でしたら、無知な私に教えていただけたらと思います。
いつもお世話になっております。 今日、新しいお寺の道内案内に参加して、疑問がすっきり晴れました。「無職だから、障害持ちだから、弱いから救われない、寺に来てはいけないなんてことはない。境内歩ってるだけで坊主や寺務員に睨まれた?うちはそんな所じゃあないから、またいつでもいらっしゃい」お坊様から暖かいお言葉を頂きました。 「お不動様は、私たちが悪い方向へ行きそうになった時に無理やり縛り上げてでも正しい方向に導いてくれる。目や牙が上下両方を向いているのは、上も下も差別なく救い導いてくださるという心の現れ」 と教えてくださいました。ここでもそう教えを頂いております。 さて、そこで疑問です。お不動様のおっしゃる「悪い、間違った方向」と「正しい道、方向」とは、どのようなものなのでしょうか。 ご教授のほど、お願い申し上げます。
先月、仏像を開眼していただき自宅にお祀りしています。 仏像の埃の掃除はどのくらいの周期でやるのでしょうか? お寺のように年末のみでしょうか? また、掃除するさい厨子から出し、台座から下ろす時は、お坊様をお呼びして撥遣すべきなのでしょうか? 仏像のお掃除の仕方を教えて下さいませ。 よろしくお願い致します。
十方諸国土に三世諸仏様、 数多の菩薩様や天部の神様がいらっしゃいますが、 特定のお寺に檀家に入っている意識も薄く、 仏像様も身近にない 在家の者は 自分が集中して拝む仏様というのは、 どうやって選ぶのですか。 別に選ばなくても良いのですか。