仏様には、如来、菩薩、明王、天部、その他があり、仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違いがあり、コンピュータに例えれば、如来がコンピュータ本体、菩薩は基本OS、明王は応用ソフト、天部は支援ソフトとの事ですが、コンピュータ本体である如来様がなくなった場合、仏様の世界はどのようになりますか?
いつもお世話になっております。少しお聞きしたいのですが、自分が決めたと思っていることが、実は仏様の力によってのお導きだったりすることは、あるのでしょうか? 自分が今まで、色んな場面で下してきた決断は、仏様が正しい答えが出せるよう、導いてくださっていた…と信じるのは、駄目なことでしょうか? 私は仏様を信じています。
延命十句観音経について とても丁寧なご解説をありがとうございました。よくわかりました。自然界の道理を小さな人間の念仏ごときで動かすなど不遜と言うほかないと気づかせていただきました。今後、観音経を唱えるときは、観音様に「奇跡を起こしてください」ではなく、「今度の手術がどうなろうともこれが娘に良いことになりますよう」と念じることにいたします。 実はこのたび観音経を始めましたのは、「景清」という落語に感化されたからです。 昔、平家に仕える悪七兵衛景清という武士が、源頼朝の命をつけ狙い、捕えられたときに、源氏の世を見るのは忍びないと自分の両目をくり抜き清水寺に奉納したことから、ある全盲の男が眼病によく効くと聞きつけ、十句観音経を100日唱え満願の日に観音さまが現れて、景清の目を貸し与え目が見えるようになる、というお話しです。 昔からこのような観音信仰があるのですね。わたしは藁をもつかむ心境から始めたことですが、今後は娘が全盲になったとしても前向きに生きていけるよう祈り、智慧を出してやろうと思います。 それから、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。定型の唱和文などあればご教示くださいませ。
長女は25年間頭蓋咽頭腫という脳腫瘍と向き合ってきました。過去12回、脳内で成長する腫瘍が各種の障害を起こさないための手術を受けました。ところが結果として、手術自体が、失明、癲癇、半身不随を引き起こす原因になってきたというのが現実です。また腫瘍摘出に伴い脳下垂体を切除しましたので、ホルモン分泌を補うためにホルモン剤を飲み続けています。右眼失明は13歳時の手術の失敗、癲癇と半身麻痺は度重なる手術による脳へのダメージによるものなのです。また、最近は腫瘍再発のスピードが速くなり、この1年間に2度開頭手術を受けました。ますます脳が疲弊していくのは明らかです。 実はここ1ヶ月の間に、左眼が重度の弱視となり、全盲となる瀬戸際となっております。そのため近々に13回目の手術が予定されています。また、今回の手術では腫瘍摘出の邪魔になる右前頭葉を取り去ることになると医師から説明がありました。右利きの人間は左前頭葉を主に使うので右前頭葉は除去しても影響はあまり出ないと言います。しかし、前頭葉摘出は人格を変えるかもしれません。今の医学にはまだ解明されていない領域が沢山あります。脳の機能はその最たるものでしょう。腫瘍を切除するために、人格を変えてしまうかもしれないことを承知で脳を切除する。日本随一の大学病院でのこの判断が、私にはどうしても腑に落ちません。しかし、放置するとさらに深刻な障害を招く恐れがあるのも事実です。端的に言えば、もはや腫瘍摘出自体が目的になり、障害を出さないためという発病当初の手術の目的は置き忘れてきたように見えます。癲癇、半身不随、失明はすべて手術の結果生じてきたのです。親としてこの事態をどう受け止めるべきか、私には分かりません。観音経を唱えて奇跡を起こせるなら、何万回でも唱えようと妻と話しています。 どうか私どもに心のよりどころをお与えください。 もう一つ教えてください。毎朝毎夕妻と延命十句観音経を唱えています。願いは長女の失明回避ですが、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。ご教示くださいませ。
いつもお世話になっております。 私は幾度か、目の前で人が逮捕されて連行される瞬間を 見たことがあります。 「あぁ…これが枷鎖難か」と思うと同時に、 それじゃ、警察や軍隊(我が国では自衛隊)は、仏教では 悪者扱いってことなのか?時折、「王様は悪い、怖い」 と言っているとも取れる記述があったり、 解説書も、著者によっては君主を避難するようなことが 書いてあったり、 実際に私が以前通っていた寺も、 住職を初め、組織的に当時の政策を法話等々で非難していたり、 悪質なうわさに便乗し、若者世代や、神経系の内部障害の人を、 そうとは気取られぬように叩いたり… 私自身も、嫌がらせを数え切れないほど受けました。 ですが、私が今通っている数カ所の祈願寺は、そう言った ことはありません。 むしろ、境内で生活安全キャンペーンを開く等、 警察、消防からしっかり指導を受け、お寺を運営、 もっとも現実的な仕方で衆生の教化に当たっている印象です。 私自身も、特に公安関係の方々に、自分が仏教徒であることを 告げたり、境内でお顔を合わせても、肩身の狭さを感じることは ありません。むしろ、 「こんにちは」「いつもありがとうございます」 とお声掛けすると、非常に喜んで下さいます。 確認になりますが、仏教は、政府や国家に歯向かう為の 教えではありませんよね?たまに、そう言うことを言っている 人を見かけると不安になります。
夜分遅くに失礼致します。 私は去年、仕事で沢山の失敗があり、 心の支えとして、2ヶ月ほど前に、 7cmほどの小さな聖観音菩薩様の仏像を 我が家にお迎えしました。 そして、寝る前や朝に、すがるような思いで、 (当時は依存していたかもしれません) ほぼ毎日、観音様に手を合わせ、真言を唱え続けた所、 今まで失敗していたのが嘘のように、 一気に仕事が順調になりました。 売れずに困っていた不良在庫がかなり売れたり、 他のジャンルの失敗続きだったプロジェクトが いきなり上手くいき始めたりと、とにかく驚いております。 そこで、質問なのですが、この感謝の気持ちを 聖観音菩薩さまに、お伝えしたいと思っているのですが、 どのように観音様にお礼をしたらよろしいでしょうか? 観音様の祀られているお寺さんに お礼の気持ちを込めて、参拝を考えたのですが、 毎日手を合わせている、我が家の観音様以外の、 観音様に手を合わせるよりも、 我が家にいらっしゃる観音様の仏像に、 いつもよりも真言を多く唱えたりした方がよろしいのでしょうか? 同じ観音様でも、仏像によって人格?や性格が 違ったりとかあるのでしょうか? 我が家に、この聖観音様がいらっしゃってからというもの、 とにかく、失敗続きだったことが嘘のように成功続きで、 この感謝の気持ちをどう表したら良いのか、わからない状態です。 いつも通り、感謝の気持ちを込めて しっかりと真言を唱えるだけでも、よろしいのでしょうか? 夜分遅くに、このような質問で申し訳ございませんが、 ご教授頂けましたら幸いです。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
いつもお世話になり、誠にありがとうございます。またひとつ質問させて下さい。よろしくお願いいたします。 先日浄土真宗の勉強会に参加させていただいたのですが講師の先生が、 仏壇を拝むということは、自分の願いを阿弥陀さまに聞いてもらうことではなく、阿弥陀さまの願いを聞かせてもらうことである、 阿弥陀さまの光に照らされて自分の姿を知らされることである、というようなことをおっしゃったのですが、、、。 私自身いつも仏壇の前では、 仏様今日も一日よろしくお願いいたしますとか、仏様いつもありがとうございますなどとお唱えしているのですが、これではやはり駄目なのでしょうか? また、お仏壇の前に座って阿弥陀さまの願いを聞くことが出来るには、一体どうしたら良いのでしょうか? 私自身実際、阿弥陀さまのお慈悲の心とか働きと言われても、なかなか実感できないところがあります。 どうかご指導の程よろしくお願いいたします。
おたずねもうします。 私不動明王様と弁財天様とダキニ天様を信心しております。自宅にて頂いたお札や御影をおまつりしたいのですが、 お水入れやお酒入れなどは一対ではなく、それぞれの仏様用に用意(三体分用意)し 毎日お供えしたほうが良いのでしょうか?
昨日、観光と共にあるお寺さんの近くを通ったのでお参りをしました。 そこには「子宝・安産」と書いてありましたが 独身の自分には今のところ関係無いからなぁ…と思いつつも、書いてあった南無阿弥陀仏を唱えお参りをしました。 その後、御朱印をいただいた際にも「子宝・安産」と書いてあり、自分には縁が無い所だったのか、でも訪れたことが縁なのか…とマイナス方向に考え込んでしまいました。 実のところ、自分の周りはすでに結婚、出産しており、みんなを見送った後少し寂しくなり、資格取得の勉強をしたり、転職したり、労働者として生きる道をひたむきに歩いてきました。 「結婚(子供)はいいよ~」「結婚(子供)は大変だよ~」と色々な話を聞きながら、自分の話(仕事)なんてしても絶対面白くないだろうなーと聞くことばかりでした。 子供もいないから社会貢献も、生産性もない、ただの納税だけでどうにかやっているダメ人間なのかなーと思っています。 (過去に自分をイジメていた人全員が子持ちなので、自分にとって子孫を作ることは無理だと思っています) その面白くないだろうなーという気持ちが、気分が落ちている時は「つまらない人生だから」となり、「こんなはずじゃなかった」「私だって」と気持ちが落ちていく一方になります。 そこでこのお寺と出逢ったことにより、心身の弱さのせいで不満が溢れていきました。 「なんでこんなところに来たのだろう」 今まで詳しくはないのですが、お寺に行くことがとても好きでした。 スッキリしたり、あーもっとちゃんとしなきゃなーと反省したり、清々しくなったような気になるからです。 なのでこんなドロドロした気持ちになったのが初めてで、自分でもびっくりしましたが、自分だけでは気持ちを改めることがどうしてもできませんでした。 折角いただいた御朱印の文字を見るだけで憂鬱になってしまいます(本当に申し訳ないと思います) きっと訪れたことは「関係無くは無い=何かのご縁」とどこかで微かに思うのですが、どうしても腐っている自分の腐敗が強烈で気持ちを改めることができません。 なので、お寺に訪れることや、お参りをする「ご縁」のお話をしていただけたら(喝を入れていただければ)幸いです。 遠い場所ですが、反省して再度訪れるべきですか? 長文になりましたが、何卒よろしくお願い致します。
こんにちは。 私の菩提寺の本尊は如意輪観音様です。 実家の仏壇にも如意輪様の絵札が掛けられています。 けど、如意輪様がどんな観音様なのか、未だによくわかりません。 いわゆる六大観音の一尊と言われていますが、千手観音や十一面観音、あるいは馬頭観音などは像容から仏様の働きや役割が何となくわかるのですが、如意輪観音様ってそこが芒洋としてて掴み所がありません。 菩提寺の御住職に尋ねても「まあ、あれは、いわゆる観音様ですよ」と言われましたが、何だかサッパリわかりません(^^;) 千手観音 →千本の手で衆生を救う 十一面観音→複数の顔で世界を見渡し、衆生を救う 如意輪観音→如意宝珠で、衆生の願いを叶える と、他の観音様が「救う」事が主眼なのに対し如意輪様は「願いを叶える」となっており、ちょっと毛色が違う感じがしますが、どうなんでしょう? 空海さんが大変深く信仰し、大切にされたとも言われるし、六観音の中では、六道のうち天上界を摂化するとも言われる事から、何か寺院の奥に鎮座するノーブルな仏様ってイメージあったのですが、よくよく身の回りを見てみると、お地蔵様のように道端でよく見かけたりします。意外に「庶民派」なのでしょうか? ネットで調べると女性的なイメージで語られる事が多いように思われます。 准抵観音(仏母)のような「母性」とは違って、艶っぽさや官能性などの「女性らしさ」が感じられるような気もするのですが。 (親鸞さんと六角堂のエピソードがそんな印象を与えてるのかも知れません。) お坊様方は如意輪観音様をどのように捉え、拝んでいらっしゃるのでしょうか? お教え頂ければ幸いです。
皆さんいつもありがとうございます。 ① 如来行とは 辛く苦しい時も、自分と周りを認めて許し、全ての人に徳を積んでもらうよう感謝し続けています。 この行動は何かお地蔵様に尋ねてみたら 「如来行」と答えをいただきました。 生きて仏に成ると 如来様同様に慈悲などを感謝の気持ちで永遠に伝える修行があります。 ② 如来行と神様仏様 すべての物事は神様仏様という成分でつくられてます。 自分自身も神様仏様でできていますし、がん細胞も、嫌がらせをするという行為も神様仏様でできてます。 全てはいただきものです。自分の身体、悔しい、死にたいという感情さえいただきものです。 何かもらった時は何と言いますか? 「ありがとうございます。」です。 自分とはこの世の時空間では点です。位置を示す座標です。あとは全ていただきものです。 如来行は一神教、多神教、あらゆる宗教宗派を超えて行うので、ご本尊も、教祖様も、経典も、総本山も関係ないです。 時間場所を選ばず自由気ままに修行ができます。 お金がかからないので助かります。 修行は簡単で、目に見える見えないに関係なく「おかげさまでありがとうございます。」と思うだけです。(陰徳) この世では声をかけた方が良いこともあるので「ありがとうございました。」と言っても良いです。(陽徳) 如来行をして感じたのは、神様業仏様業はとても辛いということでした。 敵も味方も善悪関係なく、分け隔てなく平等に愛情や慈悲を注ぐことは、この世(人間社会)では全てを敵に回す覚悟が必要です。 心から感謝されることはあまりなく、「なぜ私の願いは叶わないのか」「自分はどうして苦しく死にたいくらい人生なのか」というクレーム処理に追われます。 見事なまでの「ブラック業界」です。 でも、神様仏様は皆さんのすぐそばで、一喜一憂せず穏やかな心で労わりや慈しみ、愛情を注いでいます。 そばにいることに気づき、「ありがとう」と言えば、何とかしようとします。努力の仕方とかそっと教えてくれます。 神様仏様は森羅万象の一番下にいらっしゃいました。とても謙虚です。 万物を頭の上に持ち上げ、感謝とともに愛情や慈悲を注ぐ方が良いそうです。「頂戴する」の原点です。 これからはもっと謙虚に森羅万象の下を目指し「おかげさまでありがとうございます。」を気軽に言えるよう精進したいと思います。
今まで宗教的なことを毛嫌いしていましたが、先日何気なく入った百貨店の展示会で、干支の守護神がずらっと並んでいるのを見ました。 特に気にもせず端から見て行ったのですが、かっこいいなぁと目についたものが不動明王でした。説明書きには酉年生まれの守護神とあり、何というか気持ちがとても高揚しました。 自宅に帰りすぐ不動明王についていろいろ調べてみたのですが、調べれば調べるほど実際にお寺に行き、会いたいという気持ちが高くなっています。 けれど、今までずっと宗教なんてとどちらかと言えば、馬鹿にしていた私が行っていいものでしょうか? 参拝の仕方もよくわかりません。1人でふらふらと行っても大丈夫なのでしょうか? またもし行けるのであれば、御守りというか不動明王に関連したもの(カバンの中などに入れておけるもの)を購入出来ればと思っていますが、どんなものを求めればいいでしょうか? とても変な質問ですみません。よろしくお願いします。
私は趣味でお寺や美術館、博物館などに行き、御仏像を見るという年に合わないような密かな趣味があります。 ここで質問なのですがhasunohaのお坊さん方のイチオシ、もしくはオススメの御仏像、仏様を差し支えなければ教えて頂けますでしょうか? 地域の指定などは特にありません。 御仏像は石仏、木彫、乾漆など材質等の指定も特にありません。 よろしくお願いします。
こんにちは。 私は曹洞宗の檀信徒です。 が 密教寺院での不動明王の護摩焚きに参加しています。 密教での、不動明王の位置づけはだいたいわかるのですが 曹洞宗では、不動明王というのは存在しない。 お経でもでできませんし、 ただ地元で曹洞宗のお寺に不動明王の像がある寺が ありますが、そこにはどなたもいない僧侶ふざいの荒れた寺です。 あくまで、不動明王というのは密教での仏様だけをいうのでしょうか? よろしくお願いします。
なたか凡夫成仏した人を知りませんか? https://hasunoha.jp/questions/21854 全ての人々、万物に感謝し始めてここまできました。 https://hasunoha.jp/questions/26961 この方の質問が凄く気になっています。 なぜ気になっているかというと、そもそも全てに感謝するというのは私が目指している道であり、私が信じている内容だからです。(引き寄せの法則的な話になります) 私自身は全てに感謝できる境地にまで至っていませんが、そうなれることを目指して日々生きています。 こちらの方は悟りを開いているのでしょうか? といっても情報がネットだけなのでそれで判断することは難しいと思いますが……。 様々なハスノハの質問を見て一番気になった質問です。
私には病床に伏した祖父がおります。 その祖父の部屋には阿修羅さんの絵が飾ってあります 阿修羅さんには魔除けの力があると聞いた事があるのですが 同時に地獄の神とも聞くので、あまり良くないのではないかと心配です。 このまま絵を飾っておいても良いものでしょうか? また阿修羅さんの御利益にはどの様なものがあるのでしょうか? 宜しくお願いします。
ご縁欲しさに神社仏閣に参拝している者です。 それだけに満足出来ず家でもネットや書籍による独学、或いはお寺のお話会イベント(?)で得た知識で祝詞やお経を唱えたりしています。 …はい唱えているだけなんです、仏教の戒律は守っていません。かつては戒律を守る為、このサイトを熟読したり、実際に質問をさせてもらったり、僧伽を探し回ったり、本気で出家を考えたりしてました。 十善戒、…どころか五戒すら守れない、なかでも「邪淫」「飲酒」「瞋恚」「妄語」どうしてもコレらを抑える事が出来ませんでした。 全て過去の“あやまち”やトラウマ、自身の力の無さからくる今の自分の境遇に激しい怒りを覚えたり、酒を飲みながらノリノリで真言を唱えたり、お経を唱え終えたら邪淫を始めたり、邪淫の後にお経をしたり… いつもがいつもこうではありませんが、こんなバチ当りな日があります。 もっと正直に書くと私は“悟り”になど興味が無く、全ては神仏とのご縁が欲しいから参拝、真言お経をしているだけなんです。 当然大乗の仏教、他者の救済にもあまり興味なく自分や家族にさえ幸があれば他者などどうでもいいとさえ思っています。 しかしそんな私にもバチなど当たらず、それどころか神仏から驚くべきご縁を頂いたり、望み通り幸を頂いたりしています。 …そんなんだから【今のままで良いか】とさえ思い始めたりしています。 仏教には厳格な戒律や崇高な思想がありますね、それが真言やお経の中でも書かれていたりしますよね。「○○に帰依したてまつる」「衆生と共に○○」みたいな。 仏教の戒律は“約束”なんて軽々しいものでない、中でも真言を唱え心に描く仏様には“誓願”とまで言いますね。 “悟り”を拓く気など無いのに、衆生を救済する気など無いのに、ただ仏様が好きだからって理由で、お経や真言をする自分が好きだからって理由で仏様を欺き心地の良い疑城胎宮の中で“仏教ごっこ”を楽しむのか… それとも…?どうすればいいですか? 私のようなロクでなしでも今こそが真剣に人生、そして仏教を考える上で一種の“ターニングポイント”のように感じられたので質問させてもらいました。 興奮故に支離滅裂で読みにくかったらすみません。 仏様に直接教えて頂き、直接罰を与えて頂けたら一番ラクなんですが…私自身ハッキリとモノを言われないと分からない者なのでよろしくお願いします。
お地蔵さんっていいですよね。優しい表情で見守っててくれているようで。お地蔵さんを見るととても優しい気持ちになり、自分よりも家族を見守って欲しいと願ってしまうくらいです。お地蔵さんには、みんなの優しい願いが込められているような感じがしてとても平和で穏やかになるパワーがあると感じています。 お地蔵さんがもっと街中や道端にあれば、他人を思いやる余裕のない人でも見るだけで優しい気持ちになり、ちょっとずつ他人を思う気持ちが芽生え、日本はもっと平和になるのではないかと考えてます。 そもそもお地蔵さんってお坊さんが発注して設置したのでしょうか? 今後お地蔵さんを増やすことなどはできるのでしょうか?
仏教には様々な逸話がありますが、阿修羅像の逸話についてずっと気になっていました。 逸話を端的に言うと「阿修羅の娘を帝釈天が無理やり連れ去り、激怒した正義の神・阿修羅が帝釈天に戦いを挑むも戦闘神の帝釈天には到底敵わない、そんな中で娘は帝釈天を愛し妻になる、戦う必要がなくなったにも関わらず怒りに我を忘れ戦い続ける阿修羅」 初めて見た時は結果オーライか⁈ なんだそりゃ‼︎ と思いましたがこの逸話の言わんとすることはよく見かける解説で 「阿修羅は怒りで自分を忘れ、戦いに目を奪われて、すでに娘が帝釈天の正式な奥さんだったのにも関わらず、相手を赦す心を失っていました。たとえ、正義であってもそれに固執すれば、善の心を忘れ、妄執の悪・復讐の鬼になってしまいます。過去を水に流し、人を赦すことは大切なのです。」 とあり理解出来るとこもありますが、この逸話を初めて見た時はいくら例え話しだとしてもこの話しを納得することは犯罪を容認するようで、なんとも気分が悪くこの逸話を簡単にそうかと理解するのは無神経なようでずっと引っかかってました。 程度は違いますが私の毎日はずっとこの引っかかっりです、私の煩悩が怒りなのか杓子定規な正義への固執なのか、両方ですかね? ここから質問なんですが、この逸話の中で娘が帝釈天を愛し娘に関してはある意味で結果オーライですが、実は最悪娘は帝釈天に連れ去られた後に殺されたとしてもこの逸話の言わんとすることは同じ(憎しみの先に救いはない)ような気がして、結果オーライはまだましな話しだったのかなと最近思うようになったんですがどうなんでしょうか。 上記とは違う解説等ありますか。
今も、心の支えとして仏さまのお人形を持っています。 これは信じる心ではないんですね。なんだろう……持っていたところで何も奇跡はないけど、自分が少しでも変われたら嬉しいです。自分を変えるのは難しく簡単にできたらみんな苦労しません。これからは、「自分の取扱説明書」というのをつくり、自分の決めたことはやりとげることを続けたいです。 別の話になりますが、今でも心に乗っている「痛いこと」は、太っていることに恥ずかしくないの?と言われたことです。自分が痩せたことは一度もないし、食べるイベントてきなものがあるとそれに流れて乗ってる自分……好きなことで頭一杯にすれば少しは、楽なのになーと思っています。