仏像の開眼について2つご質問させてください。 仏壇のご本尊とは別に、旅先でも拝めるように、携帯用の香合仏の阿弥陀様を頂きました。 そこでご質問なのですが、やはり仏像は開眼をしなければ、部屋のインテリアや玩具のフィギュア同様、ただの人形なのでしょうか? もう一つは仏壇のご本尊なのですが、私の檀家のお寺は遠方にあり、しかも年末年始のお寺様も忙しい時期にしか帰省出来ません。 それでやむなく、東京の同じ宗派のお寺様で開眼していただきました。 (開眼が必須でしたら、こちらのお寺にまたお願いしようと思います)。 ですが将来、新しく脇侍の仏様も入れたく、いずれ機会がありましたら、実家の檀家のお寺様で開眼したいと思うのですが、ご本尊は既に東京のお寺で開眼済みです。 この場合、ご本尊様と脇侍様を一緒に開眼すれば、ご本尊様を2回開眼することになりますが、問題は無いでしょうか? よろしくお願い致します。
題名そのままです。お釈迦さまのお母様、マーヤー夫人は仏様ですか?マーヤー夫人に祈っても大丈夫ですか?
いつもありがとうございます。 亡くなった愛猫の冥福と極楽浄土での再会を思い、先日からふと思い出した時に「南無阿弥陀仏」を称え始めました。 過去の様々な質問回答を拝見して、「南無阿弥陀仏」には、「阿弥陀様にお任せします」という意味もあると知りました。 「私にはどうしようもできないけれど、阿弥陀様が良いようにしてくださる、お任せしよう」という気持ちでお称えするという事でしょうか。 「良いように」というのは、「自分の望み通り」という意味ではなく、「あるべき姿、自然な形に」という意味です。お任せした結果が、望むようなものではなかったとしても、その結果が一番良い結果だったのだと、自然な流れだったのだと、そのような感覚です。 自分自身の事はもちろんですが、離れて暮らす家族の平穏無事な毎日だったり、友人の抱える苦しみなど、私がどうにかしてあげたくてもできない、コントロールできない事がたくさんあります。その様な事に対して、どのようにお任せしたらよいでしょうか。 「阿弥陀様を思いながら家族の平穏無事な毎日を祈る」と言うより、「家族の毎日を阿弥陀様にお任せします」という感じでしょうか。 焦りや悲しみ、怒りの感情を鎮めたい時なども、お念仏は効くような気がします。似たような質問が過去にもありますが、よろしければ、お話を聞かせください。
南無阿弥陀仏は全て唱えないと阿弥陀仏様は迎えに来てくれませんか?それとも南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいのでしょうか?
僕は仏様のような優しくて広い心になりたいです。それにはどのようなことをすれば良いでしょうか?それをしていれば天国へ行けますか?
ご縁があって興福寺の阿修羅像の精巧なフィギュアをいただきました。 仏像のフィギュアは基本的にインテリア用に作られていると聞いています。 開眼しなければ仏像はただのお人形なので、部屋のインテリアにしても、ばちは当たらないと聞きました。 しかし精巧な出来から、フィギュアを開眼して、信仰しておられる方もいるそうです。 ここで質問なのですが、阿修羅像を自宅の祭壇に飾っている人がいますが、これは問題ないのでしょうか。 興福寺の阿修羅さんは、とても美しくかっこいいですから。 阿修羅さんは仏道に帰依して、改心して護法善神になったと聞いていますが、かっこいいと思うと同時に、怖いイメージもまたあります。 またお寺でも興福寺以外では、阿修羅さんが祀られているのは、あまり見たことがありません。 ご教示いただけたら幸いです。
こんばんは。 いつもお世話になっております。 昨日に引き続き連日の質問になり申し訳ございません。 今日、夕方に自転車で近くのスーパーに買い物に行きました。 自転車では滅多に行かないし、今日は向いからトラックが来たしでコースが変わり。 慌てることもなかったので銀杏の色付き具合など散策気分でゆっくりと行きました。 何気なく左側を見ると碑?らしきものが。 何だろう?と足を止めると、まだ新しい碑に子供の作文が書かれていました。 恐らく学校で書いた「家族で行ったキャンプでの楽しかった出来事」 そのキャンプの土地には私自身深い思い入れがありました。 その気持ちがあったからかどうかは定かではないのですが自転車を降りて手を合わせました。 右手には6体のお地蔵様が在られました。 買い物を済ませ、ヤクルトみたいな小さなジュースをその男の子とお地蔵にお供えしてきました。 2014年と彫られていました。 最近ですね…。 辻地蔵さんや村の入り口のお地蔵さまなら気にならなかったのかもしれませんが、全く知らない子供さんの供養塔に手を合わせお供え物をした私。 なぜなんだろう。 自然な行為でした。 そっかぁ、この土地で家族でキャンプしたんだね、楽しかったんだね、この作文はご両親が詰まる想いで選んだんだね。 ジュースだけでもお供えさせてね。 そんな感じです。 実は今まではあえて避けていました。 道端のお地蔵さまには手を合わせてはいけないと聞いていたから怖くて常に避けてました。 今日のように手を合わすことは余りしない方がよいのでしょうか? そんなに機会もないとは思いますが。 最近になり、亡くなった方には沢山の人が手を合わすほど良いとお坊さまに聞いたことや、少しでも慰めになればと思っただけでした。 ここ数年の自分の変わり様には自分自身が一番驚いているところです。 もっともっと早くに仏教を知るべきでした。 仏教について投稿されている10代20代の方々を尊敬しています。 ほんと恥ずかしい限りです。 お読みいただきありがとうございました。 上記の件につきましてお教えいただければ幸いです。
阿弥陀さまは念仏を称えない人も極楽に往生させてくださいますか?
はじめまして。 このサイトを知ってから、仏教やお坊さん、お寺に興味を抱き、仏教について勉強中の者です。 先日、テレビを観ていると、檀家さんから頂いた鮎を住職さんが調理する前に「南無阿弥陀」と唱えておられました。(南無妙法蓮華経だったかもしれません) 仏教では(自分の為の)殺生はいけない事だと知りましたが、私は害虫などは殺してしまいます。 その様な時に「申し訳ない」と言う気持ちを込めて南無阿弥陀を唱えれば良いのでしょうか? 南無阿弥陀は「阿弥陀さまを信じています」と言う意味だと本で読んだのですが… 鮎を頂いた時の住職さんが唱えた「南無阿弥陀」はどの様な心情だったのでしょうか? どの様な心情の時に南無阿弥陀を唱えるものなのでしょうか? 教えて頂くと有難いです。 よろしくお願いします。
閲覧ありがとうございます。 法事での出来事です。 私の母はお経が音痴です。しかも、普段の声は低いのにお経を読むときだけ声がとても高くなります。 私と妹は普段からちょっとしたことでわらってしまいます。 最初は母のお経をおかしく感じつつも笑いをこらえていました。しかし、妹が笑いをこらえつつこちらを見てきて吹き出してしまいました。そのあとすぐに咳払いをして、ごまかしましたが周りは気がついていると思います。妹は声は出していないものの、無音で笑い続けていました。 大変不謹慎だとは思います。 仏壇の前で謝罪しましたが、仏様はまだお怒りでしょうか? もう20才にもなるのに、はずかしいばかりです。
毎日お釈迦様や観音様へお経をあげ、灯明やお水、線香を炊いているのですが、父親から仏様を拝むのを縁起が悪いから辞めろと言われました。 ですが辞めたくありません、私はどうしたら良いのでしょうか。 家にあった仏像や仏画などは撤去されてしまい、どのように今後拝めばよいのか分かりません。 お坊様、助けてもらえませんでしょうか。
タイトルの通り、 田舎の祖母からもらった韋駄天の20センチほどの像を持っています。 木彫りで黒く塗られた簡素なつくりのものですが、かわいらしい姿をしています。 祖母はこの像に私の無事を守るよう祈ってくれていたそうで、 以前、つらい節目に実家に帰った時に一緒に連れて行けと持たされました。イケメンで足が速い小間使いさんだと。 自宅はアパートで仏間がないので、背の高い本棚の一番上の段を そうした空間に見立てて飾ってあります。なんとなくですが、お守りや大事なものはその周囲に保管するようになりました ^^; このように結構適当にお迎えしてしまったのですが、 せっかくなので何か家の中でのお作法や相性などあれば知りたいです! お詳しい方、ぜひご教授願います。
真面目な質問ばかりの中、くだらない内容ですいません。 もしかしたら仏教の質問ですらないのかも知れませんが。 私は茨城県在住なのですが、車で1時間少々の距離に 不動明王様をご本尊とする、真言宗系の 有名な仏教寺院があります。(千葉県成田市) しかし最近、同僚から「あそこはカップルで行くと別れる。 家族で行くと夫婦仲が悪くなる」と聞きました。 何かと思ってネットで検索したら、入口付近に弁天堂があるので、 弁財天様がカップルに嫉妬して別れさせるのだそうです。 同じようなスポットは全国各地にあり、東京の某公園も弁財天様の からみで破局スポットとして有名です。 特に2人でボートに乗ったら別れるとか・・・ 俗信や迷信の類でしょうが、よく考えたら 弁財天様(サラスバティー)って、ヒンズー神話では梵天様(ブラフマン)の お妃様ではないのでしょうか? これ以上望めないような夫君が居るはずなのに、ネット情報曰く 「弁財天はいつも七福神達と一緒なので出会いが無く、 独り身の為にやきもちを焼く」との事。そんなバナナ。 吉祥天様(ラクシュミー)にしてもヒンズー神話では那羅延天様(ビシュヌ)の 妃のはずが、仏教(日本?)では毘沙門天様の妻君になってます。 インドでは優しい夫婦神なのに、仏教では武神の妻。 なにかしっくり来ません。 夫婦揃ってるのは大自在天様(シヴァ)と 妻の烏摩妃様(ウマー)くらいです。 もっとも、彼らは降三世明王様に踏みつけられる役ですが・・・ ヒンズー教と仏教で配偶神が変わっているのは、 何か教理的な意味があるのでしょうか? それとも、ヒンズーの神様と仏教の天部神様は 別人格(別神格)と考えるべきなのでしょうか?
今注文していた小さい御仏像が届きました。赤い巾着袋が付いていて八角鏡ミラーステッカーも同封されていました。子年生まれの私なので千手観世音菩薩でした。キリスト教では聖具を購入したら神父様に祝別して頂かないとダメなのですが、御仏像の場合はどうなのでしょうか?主人とワンコ達の為に購入しました。
余りに辛くて悲しくて仏様にお守りください、南無阿弥陀仏と唱えようとしても涙で喉が詰まってしまう事しばしばです。 一昨年倒れてから(二親と妹は自殺未遂と診断?しましたが日赤ではウイルス脳炎と診断されました)主人は朝と晩電話してきます。ラブラブとかではなく切羽詰まっていて私の声を聞きたいからです。泡を吹いて倒れていた私を主人は見ているので声を聞かないと不安なんだそうです。メールやラインは他の人でも送れるからねと言っていました。 こんなに心配をかけている私は生きていていいのでしょうか?慌てて頭を振って否定しますけど二親と妹は私を死に損ないの疫病神と言いましたがその言葉が頭の中に響く事があります。悲しくなります。怒られるのを覚悟で言いますが、仏様私の命を絶って下さいと言ってしまう時もあります。でもその後必ず私主人に申し訳ないなんて言っているけど苦しみや辛さから逃れたいが為に口先だけじゃないのかと思う時もあります。 御坊様、お休みなのに御免なさい。もう真っ暗闇で雷の一筋の光もありません。もう自分はどうでもいい、主人とワンコ達が幸せになってくれれば十分です。ワンコ達も私にまとわりついて、すがるような眼で見ます。こんな事今までなかったのですが。仏様には、主人とワンコ達の命を原告達からお守り下さい、幸せにして下さいと祈っています。
街のお地蔵さんの拝み方を教えてください。 いつもは、 二つ立ててある使いかけの蝋燭の1本に火をつけ、その火を使って2本に折ったお線香を火をつけ、蝋燭はすぐに消す →今日も見守ってくださってありがとうございますとお礼を言って悩みを聞いてもらう の順序で拝んでいましたが、 このやり方では失礼がありますか? ゴミ捨て場の目の前なので火事にならないようにと思ってそうしていました。 そもそも、いわれも分からない街のお地蔵さんを拝むのは良くないのでしょうか? 教えてください。
いつもお世話になっております。 諸経典に、「法身、報身、応身」「自性輪身、正法輪身、教令輪身」などと記載がありました。 ✳︎ その中の、阿弥陀如来の三輪身、三輪応身(どう違う…?)について、一説には 「阿弥陀仏→文殊菩薩→大威徳明王」、 もう一説には 「阿弥陀仏→白衣観音(うろ覚えですが…)→馬頭明王」とありました。 ✳︎ 私の本山でも、祈願殿に馬頭観音様をお祀りしています。馬頭観音様は一説によると、 競馬場などにお祀りされて動物の供養、回向の本尊とされているそうです。 ✳︎ なぜ、阿弥陀様は分岐しておられるんでしょうか。それと、「輪身」「輪応身」も違うんでしょうか。教えていただけたら幸いです。
お寺や仏像を見ることが好きで、心が落ち着きます。(お墓参りもおなじです) いつも思うことですが、お寺(神社もそうですが)金色を施しているものが多く見かけます。お守りも赤や金色をつかっていますが、何か意味はあるのでしょうか? 仏像を見ると心が落ち着き昔の方の、こと(どうやって作られたのだろうか。とか)を思い浮かべて拝見させてもらってます。
いつもお話を聴かせていただきありがとうございます。 毎日読ませていただいてます。 今回、2回目の質問です^^ 私が生まれ育った実家は限界集落で買い物も車で1時間程 かかる山の中です。 私が5歳くらいの頃の話なのですが、虫歯が痛くなる度に、 おばあちゃんが泣く私をオンブしては遠くのお地蔵様にお参りに 連れていってくれていました。 自分の記憶の中では通称「トンネルのお地蔵さん」です。 結構な坂道で軽く片道徒歩40分くらいはかかったと思います。 祖母は30年前に亡くなりました。 以来、「おばあちゃんはオンブして連れていってくれたんやね・・・重たかったやろね・・・」という会話を実家で毎回の様にしていて、 最近、そのお地蔵様にお礼のお参りをどうしてもしたいという 気持ちが急にズンズン湧いてきて今年の5月に行ってきました。 実は20年ほど前に新しいトンネルができ、そのお地蔵様は 新しい車道から上の部分にあり、新車道からやっとこさ 見える程度の場所にありました。 車を降りて苔だらけの今にも滑りそうな道をかけ上がって行くと お地蔵様らしき?陰を発見。 山の中なので昼間でしたが真っ暗でした。 やはり誰も足を踏み入れていない様子でお地蔵様の上には 大きな折れた木の枝等が覆い被さり、山肌も崩れ、 お地蔵様自体はやっとこさ木の根っこがあればこそ倒れないで どうにか立っておられた・・・という感じでした。 いつ崩れてもおかしくないくらいでした。 木や落ち葉や土をよけると、いつお供えされたか分からないような 缶ジュースとコップが埋もれていました。 こんなお姿になって忘れていて放りっぱなしでごめんなさいと 我を忘れて出来るだけきれいにしました。 そして子供の頃のお礼と、ずっと来なかったお詫びを言い、 ろうそくとお線香をお供えしてきました。 実家に着き、父に話すと「誰も行かないよ」と。 集落の人も誰も何十年も行っていないそうです。 父親もずっと昔からあるお地蔵様なのでどのように お祀りされていたかさえ詳しいことは全く分からない様で。 そして先日、お盆に帰った時に車で前を通ったらお地蔵様が こちらを見ていました(暗く茂った山林の中、お地蔵様だけ浮いて見えた感じとでもいうのでしょうか) お地蔵様は何を思い今、そこに居られるのでしょうか?
阿弥陀様、観音様、仏様の皆様。 沢山の辛く悲しく悔しい試練の多い私の人生ですが、夫に巡り会わせてくださって本当にどうもありがとうございます。 合掌