只管打坐のやり方について
最近、坐禅に興味を持ったものです。
恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。
井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました
只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております
けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。
坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。
けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか?
この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね…
長文失礼しました
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いつでもご連絡を。
井上貫道老師の動画をYOUTUBEでもUPさせていただいております。
高画質、高音質、ハイクオリティ、最前列にて。✨
コロナ以降、老師のご迷惑になってもいけないと思い、控えております。老師のフォロワーさんが定期的に挙げておられるようなのでその方々がやって下されば十分でしょう。
大切なのは老師の話が理屈で分かることよりも、きちんと老師の説かれるところの内容を会得されることが大切です。
只管打坐という言葉は忘れた方がイイでしょう。
只管打坐という言葉が独り歩きしているように感じませんか?
それは曹洞宗の頭の固い人たちが「定義した」「学術上の只管打坐」「曹洞宗という宗派で学者ちゃんたちが定義しちゃった❝これぞ只管打坐だぜ❞という只管打坐っぽい感じのするイタイ只管打坐という❝座❞禅スタイルであって道元禅師の説かれた❝坐❞禅とは程遠いもの」だということを見抜く力もお持ちください。
曹洞宗の某有名僧侶も最近まで只管打坐を❝JUST SITTING❞と勘違いしていたほどです。座ることじゃァないのですよ。形や理屈ではなく、どうなることで人は心底救われるのか。座ということや禅ということも一度捨てて我流の「僕はこう思う」というモノを完全に優先させない態度で学ばれることをお勧めします。
埼玉県でも現住職研修会で井上貫道老師が10年連続で提唱・講話をされておられましたが、学ぶ人・聞く人・受け取る人によってはちんぷんかんぷんです。我見・私見・ワタクシ流の先入観・先んずる我見がある人は間違った受け止め方「解釈」をしてしまう。
坐禅、只管打坐とは、座禅を「する」ことではありません。坐禅ということの内容をきちんと弁える。はたから見れば坐禅しているようでも座ってぶっちゃけ何してるのか。その内容がどうか。心底、考え、見解を先立たせることなく、考えの生じる以前から身心が触れている今の事実に目を向けて、思考が伴われる前の感受に目を向ける。非思量なる思考以前の事実を見つめ、そこに思考が伴われないままの事実がある。そこをよく見つめてみることです。坐禅や只管打坐ということを「やろう」とするから、坐禅や只管打坐が指し示すところのそのものにならない。今これをご覧になりながら、そういうことにも用もないままに過ごせていた事実がある。そこを人は見落としている。只管打坐をしようとして意を動かしているその矛盾ツールを捨てる。
師事するのは極めるため
「お釈迦様の見た光景を見たい」
素晴らしい言葉だと思いますし、私をはじめとした多くの僧侶と同志ですね。
さて、お釈迦様は出家の後、いろいろな仙人・聖人のもとで修業をして、
「これもちがう」「あれもちがう」と何度も師匠を変えております。
最初から「近くのお寺で継続的に」と考えなくても、旅行先で一度、体験をやってみませんか。
その後も関わり合いになろうと思うから余計に緊張してしまうのかもしれません。
お釈迦様と同じように家の外に出て、様々なもの・人を見、様々な人に教わってみるのはどうでしょう。
自分で考えるにせよ、特定の方に教わるにせよ、先に知見を広げておくことがあなたの修行の助けになると思います。
「世界は美しい」
Aiueoさま
「お釈迦さまの見た光景をこの目で見たい」
素晴らしいことであります。仏陀・如来がこの世界をどうご覧になられていたのかを考えることは、まさに「悟り」とはいかなる事態であるのかを探求していくことにもつながるため、非常に善い着眼でございます。
ちなみに、釈尊が「世界は美しい」と感嘆なさられた記述が大般涅槃経にございます。
この世が美しく映えていた釈尊におけるありようとはどのようなものであるのか。
ぶっちゃけて言えば、釈尊においては、この世も清浄なる浄土世界と映えていたものとなります。
このような汚れに満ちた世界が、と、まあ、我々は考えることでしょう。
ここに、凡夫に映えている世界のありようと、悟りを開いた仏陀・如来に映えている世界のありようとでの決定的な違いを考えることで、では、どうすれば私たちもそのように映えさせることができるのだろうか、そのために何をしなければならないのだろうかと考えることで、より仏法を学び実践していくことになれば、誠に有り難いことになります。
「離戯論をご覧になる」、とか、「ご覧にならない仕方でご覧になる」とかといった表現で説明されることもありますが、ヒントは「空」(空と縁起)となります。
坐禅、つまり、止観の実践における要諦も、いかに「空」の核心へと近づくかということになります。
「只管打坐」もただ坐るだけでは、真理を悟る智慧はとても得られません。「空」の理解へと向けて、どう坐るべきかで坐禅をお考え頂けましたらと存じます。
合掌
質問者からのお礼
けいじょう師
ありがとうござきます。一度だけコロナの前に遠出をして瞑想会や面談をしたことがあるのですが、現在は情勢的に厳しそうです😭
丹下 覚元師
いつでも連絡ということはプロフィールにある電話番号にかけてもよろしいのでしょうか。僕は坐禅初心者で、げんにび、と井上貫道師提唱の一巻を読んだぐらいの知識しかありません
けれども井上貫道師の動画をアップロードされているとのこと。動画も見てみます。
プロフィールを見たところ、井上貫道師と同じことを言われているので、丹下覚元師はハッキリされた方なのでしょうか。不躾な質問だったらすみません。
我流の坐禅になっていないか正して頂ければこれほど嬉しいことはないんですが…