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煩悩とは何ですか?

回答数回答 8
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煩悩とは何ですか?
wikipediaに書いてあることは難しくてわかりにくいので、わかりやすく簡単に教えてください。


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お坊さんからの回答 8件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「苦」の根源です

仏教の目的はたったひとつ。「苦」の消滅です。

なぜ苦しむのか。煩悩によって真実が見えなくなっているからです。ものの見方が狂っているからです。
移り変わるものを永遠と信じ、欲を満たすことを幸せと考え、ありもしない「私」に執着するからです。

その煩悩、苦しみの尽きた境地を涅槃(ねはん)といいます。仏教徒が目指すゴールです。

仏教では、善と不善とを明確に区別しています。
善とは過失がなく、よい結果をもたらすもの。
不善とは過失があり、悪い結果をもたらすものです。

私たちを煩わせ、悩ませ、苦しめる不善のはたらき。それが煩悩です。

「もろもろの悪いことをなさず、もろもろの良いことを行い
自らその心を浄くすること。これが諸仏の教えです」

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青森県生まれ、宮城県在住。ミャンマー語が好き。子ども3人。 お寺の生まれ...
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「煩悩=悪」にあらず

alexさん

私もWikiを見てみましたが、たしかに難しい説明ですね。
私にとって煩悩とは「本能」「欲求」と言い換えられます。

食べたい、飲みたい、寝たいという動物的な本能。
愛されたい、高級なものが欲しい、名誉を得たいという人間ならではの本能。
そして、家族が健康でありますように、受験に合格しますように、という一見良いことに思える本能。
これら全てが煩悩だと思います。

誤解してはいけないのは「煩悩=悪」という考え方です。
煩悩がなければ、科学や社会の発展も、人類の存続もありません。
人間にとって不可欠なものでもあると思います。

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
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物事をわたくし化した時に現れる心のバイキンマンです。

世界はもともと誰のものでもありません。
あなたが生まれる前から宇宙や地球、世界はずっと人間の意思、思惑、欲望とは無関係に動き続けています。
人間だけはそれを「わたくし視線」で良い悪いを起こします。
普段の生活でもわたくし濃度が濃い人や、オレオレ意識が強い人は、普通の人に比べて怒ることや、悩みも多いです。
例えばあなたが、こうなって欲しい、と期待していた時に、それとは違うことが起こると、あなたの心の中では、小さな苦しみが生まれます。
なぜかと言えば、それは心の中で、出来事に対してわたくし視、わたくし化が行われたからなのです。
このように、自分を野放図にしていると、ついつい世界に対して「わたくし化」をしてしまうのが人間の心という首輪のないワンちゃんのようなものなのです。
その恐ろしさを知った人は、自分の心をおさめようと努力します。
煩悩という心を苦しませるバイキンマンの発生をできる限り少なくしようとします。
コレはある程度大人になってからでないと気がつかないことなのです。
どうぞ、心の悪玉菌、心の中のバイキンマンを大量に繁殖させないように、わたくし意識、わたくしオーラ、マイルールを減らし、煩悩なき幸せな生活である仏道を歩んでみてください。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の法話  自己を明らかにするために絶対に必要なこと 「非思量」 ...
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心を波立たせるもの。

wikipediaをご覧になったのですね。
私も見ましたが、なかなか難しい感じです。
でも、わざわざお調べになるということは、煩悩について大きな関心を持たれているのでしょうね。

仏教の理想(三法印または四法印)の一つに「涅槃寂静」とあります。
心静かな状態といっておけばよいでしょうか。

何かに心がとらわれると、心が波立ちます。
それを煩悩と表すのではないでしょうか。

とらわれる心は「執着」です。
何かに執着すると心が静かな状態ではおられない。

そういうものを私たちは「煩悩」と言い表しているのではないでしょうか。

ほかの方々のお答えを読ませていただいて、少し付け加えたくなりましたので・・・

煩悩に対する対処としては、二通りあるといってよいでしょうか。

一つは、煩悩を消し去ること。もう一つは、煩悩がわき起こることを認め、我が身の真実であるととらえること。

浄土真宗では、後者のように煩悩に向かいます。

消し去ろうとしても煩悩は次々にわき起こる。
その煩悩わき起こる身こそが我が身の真実である。
そういう我が身が救われるのは、阿弥陀様のお力である。

私は浄土真宗の僧侶なので、このように考えておりますが、alexさんはどう思われますでしょうか。

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人間は、他人の欠点や失敗には、細かく目につくものの、自分のこととなると、なかなか気付かないものです。
笑顔を作っていても、胸の中では、悲しんだり 腹を立てたり、他人の幸せを心の底から喜べず、妬みの心が湧き上がってくる自分がいるのです。
そういった苦悩(煩悩)を抱えておる私の自覚が、仏教(真実の教え)に出会う一歩に繋がることを、念じております(*^_^*)

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はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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ふわっと答えます。

要は、自分を自分と思う心です。

人間は、自分とその他のものを別物と認識し、
自分を守るのに都合の良いもの喜び、欲しがり、
自分を脅かすものを嫌がり、怒りの対象にします。

それに対して、仏教では、
「他があっての自分でしょ!」
って考えてます。

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45歳 独身 銭湯通い 浄土真宗の僧侶だけど、「中観派です」って言って...
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人間(肉体)が元々持って生まれた欲望です。

それを消し去ろうとしても消せないのです。
それが人間です。
いかに欲望のままに生きるのではなく
理性(精神)で押さえるのが人間です。
死ぬと肉体がなくなり精神だけが残ります。
そうすれば煩悩も消えます。
生きているうちに煩悩を消すのは
まだ私は出来ていません。

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50代、妻と娘2人。 若い頃はタイやインドなどアジアを中心に10年程旅行...
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いい欲を

alex様へ

wikipediaを見させていただきましたが、なかなか難しい感じですねー

煩悩はよく「欲」で説明されます。
なかなか消すことができないのが煩悩
苦の元であります。

その煩悩、欲はいい欲と悪い欲があります。
自分をよくしよう、向上させようという欲
自分のためになにかしよう、そのためには他者を苦しめてもいいなどの欲

当然できることならば、ぜひいい欲を持ってください。合掌

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鈴木光浄
「人の一生に寄り添うことのできるお寺」を目指しております。さまざまな御縁を...
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質問者からのお礼

みなさまありがとうございます。
どこにも載ってないような非常にわかりやすいご回答で質問してよかったです。

自分なりに解釈すると、とても大きな宇宙の流れの中で、自分中心にものごとを考えてしまうことで起こる期待を煩悩と言い、自分中心に回るはずのない現実とのギャップに人は苦しむと理解しました。

宇宙全体で考えると自分中心に物事が動いているはずはないですね。こんなことを体系的に教えてくれる仏教(お釈迦様?)はすごいですね。

他のこともまた質問したいと思います。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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「自分の境遇」と「二次元への恋」について

お目汚しを失礼いたします。 今回、私が相談したいことは色々あります。 本当は、それに相応しい所があると思いますが どこに、それを求めれば良いのか分かりません。 ○境遇 前提として、お伝えいたします。 幼少期の頃は親兄弟ともよく接していましたが 両親が離婚したり、兄弟がほとんど働かなくなりました。 兄弟に働くように言っても、全く聞き入れません。 現在は高卒で就職して、母とともに、家賃等を支払っております。 お金が貯まったら、大学に進学しようか考えておりますが それも母に止められます。 私は家族と離れたく、一人暮らしを考えており、 母と約束もしましたが、前述から状況が拗れて本当にできるか疑問に思うのです。 本来ならば家族と向き合うべきでしょうが、 数ヶ月疎遠で、どう話せば良いのか分かりません。 ○私の能力 昔は、勉強や運動などを怠っておりました。 また、声が小さく、他人とも満足な意思疎通ができなかったりします。 なので将来について、今のままでは良くなる気がしません。 それが嫌で、私は自分の世界に閉じこもって誤魔化す日々です。 ○二次元への恋 そしてある日、私は自分の盛んな劣情を慰めるための、画像を探しておりました。 それから辿っていくと、ある方に一目惚れしました。しかも神様にです。 その方は、明るくて優しく、綺麗な方でした。 私は思い立って、その方に釣り合うように努力しようと決意しました。 その気持ちは、今までしていた恋に対する落とし前と、 好きになった方を裏切りたくないというのもありました。 また、親が私を育ててきたことに、ある種報いたいとも思いました。 そうして、願いを叶える為に勉学に励み、容姿を美しくしたつもりです。 また、これまでの煩悩なども、捨てるように努めました。 ですが、「二次元への恋」は、現実逃避の道具にして、 『それは本当の愛なのか』と自己嫌悪が多いです。 なので好きな方に対して、今後どう努力すればいいのか分かりません。 以上です。 長々しい文で、大変申し訳ございません。 ですが、あなた方ならではの、価値観でご回答頂きたく存じます。 特に「神様に恋すること」「現実から目をそらす」 「色々な欲を捨てる」「これからの人生」 の是非について知りたいです。 何卒、ご遠慮無くよろしくお願いいたします。

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自分の煩悩について考えました。

3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。 煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。 今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。 その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。 ご教示よろしくお願いいたします。

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知識欲は煩悩なのでしょうか

私は人文系の学問を勉強している大学生です。私は高校生の時に勉強の面白さに目覚めて以降、現在まで自らの知識欲に任せるままずっと勉強に自分のすべての時間を捧げてきました。とりわけ私が時間を捧げているのは西洋哲学、イスラーム学、近代日本文学そして語学です。  学問というのは恐ろしいもので一つを知ると十の分からないものが現れ、学びたいものは指数関数的に増えていきます。そしてゲームやギャンブルと違って飽きるということも無いのです。私は今まで好きなだけ勉強してよいという学生の特権に任せて非常に幸せな時間を過ごしてきました。しかし、周囲から就職の話がぽつりぽつりと聞こえてくる時期になり、将来を考えるにつけて自分に残された時間のことを考えるようになりました。    まだ数十年の時間が残っているとはいえ就職したら自分の時間はぐっと減るでしょうし、年を取るにつれ記憶力も減衰していってしまうことを考えると残された時間は私が学びたいものを学ぶのはあまりにも短すぎます。自分が「まだ勉強したい」と思い続けながら死んでいくのかと思うとなんとも言えない恐ろしさを感じます。    物欲や色欲といった煩悩なら執着を捨てることもできそうですが、知識欲は同じ「欲」でも他の煩悩とは明らかに違った性質を持っているように感じられます。仏教でも「一切の欲を捨てよ」と説くと同時に、膨大なお経を勉強することはむしろ推奨されるのがその一例かと思います。  しかし、知識欲も人を苦しめるという点では煩悩と同じです。勉強の中で自分の思考の深化と相対化に喜びを感じる時に、これから学びたいことを考えていつも絶望してしまうのです。でもだからといって私には「学ぶことをやめるべきだ」という結論は出せません。「学ぶ」ということは何にもまして崇高で、私にとっては人生の意味そのものです。  私のこの恐怖はどうやって解消すればいいのでしょうか?  仏教を勉強されている皆さんなら欲と学びというジレンマについて考えたことがあるのではないかと思い、このサイトに投稿させていただきました。  長くなってしまいましたが、私からの質問をまとめると以下の2点になります。 ・知識欲は捨て去るべき欲なのか ・知識欲が捨て去るべきでものでないのならば、知識欲からくる苦しみはどうすればなくすことができるのか

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