仏とは?
以前にも質問された方がおられるようですが、現在の日本仏教において「仏」とはどんな存在というか、”もの“なのですか?先生方は、どのような概念をおもちでしょうか?
私のように僧呂でない者の多くは、“神”に近い形而上的存在のイメージでとらえている人が少なくないと思います。
僧侶の方にもそのようなイメージでとらえている方はいらっしゃいますか?
また、いらっしゃるなら、”仏”を信じるに至るまでに(当然、信じておられるでしょうから)、なにか不思議な出来事を経験されましたか?そのようなことがありましたら、お聞きしたいです。
自分でいうのもなんですが、私は自身を、わりと信心深い方だと思っているのですが、自宅の仏壇の前に座り、お勤めをしているときにふと、なにか虚しいことをしているように思ってしまうことが多々あります。そのたびに「信心が弱いんだなぁ」とガッカリしてしまいます。そんな私の信心を強固にしてくれる証というか、サインというか、そんなものが欲しいのです。
以上のような理由で、今回質問させていただきました。
何卒、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏とは真理に目覚めたもの、目覚めさせるはたらき
ご相談拝見しました。
語弊をおそれずに申し上げるととっても良い質問ですね!私自身もたくさんの僧侶方からの回答を期待しております。
仏とは歴史上で言えばゴータマ・シッダルタ(お釈迦様)その人ですが、お釈迦様だけが仏であるわけではなく、またお釈迦様もはじめから仏であったわけではありません。
真理に目覚め仏となったのです。
であるから仏とは「真理に目覚めたもの」を指しますが、同時に真理に目覚めさせてくれる「はたらき」をも指します。
よって「恒河沙数諸仏」と表現されるようにガンジス川の砂の数ほど、つまりは数え切れないほどの仏がおられるわけです。
さて、お釈迦様が目覚めた真理とはお釈迦様が考え新たに作り出した概念ではありません。お釈迦様は目覚めたのです。そう、つまり真理は釈尊以前からすでにしてあり、釈尊をして目覚めさせたということになります。
何が言いたいかと言うと、私が信じる信じないにかかわらず存在しはたらいているのが真理です。「私が信じる」という方向を超越しているのです。
むしろ、どこまでもいっても「仏を疑う私の姿」を照らしてくれるような「はたらき」であると言ってもよいのではないでしょうか。
仏を疑い、神秘体験(不思議な体験)を期待したり、たまたまの体験に不思議な力を見い出したり、吉凶禍福に一喜一憂し恐れとらわれたり…そんなまやかしものに囚われるのが私の迷いの心。
真理とは迷っている私に迷っているぞと教えてくれる仏の智慧。
諸法無我・諸行無常・一切皆苦・涅槃寂静
どこまでも今この現実を離れない事実としてここにある。
私の信心を強固にしてくれるものではないのです。まやかしの信心を打ち砕いてくださるのです。
だから不安でよいのです。虚しくてよいのです。迷ってよいのです。そこに仏ははたらいています。
私も三身説(さんじんせつ)の切り口から回答します
いくつかバリエーションがありますが、私も法身(ほっしん)、報身(ほうしん)、応身(おうじん)のバージョンです。
このうち形而上的なイメージが強いのは2つ目の報身です。修行を重ねて仏と成り、すべての人類を救済して下さいますよという感じです。
いわゆる信じるという概念は神道を含め日本宗教には馴染みが薄い概念でした。八百万の神々に対しては「お祭りでご機嫌をとるから、その代わり荒ぶらないようおとなしくしていてもらおう」という極めて人間臭い発想なのですよ。これは多神教圏ではよくある普通の概念です。阿弥陀信仰はちょっと特殊ですが、この発想を下地とした文化の中で育てば、一神教的な信じるという概念に引っかかりが生じるのは自然です。
3つ目の応身は実際の人間が悟ることです。お釈迦さまは実在した人物であることは考古学的に証明されていますし、お釈迦さま以外にも悟った人はたくさんいらっしゃいます。仏という言葉のハードルがインフレする以前の原始経典ではみんなポンポコ悟っています。
ここで大切なのは悟ったという肩書きを信じることではなく、その教えに触れ、共感し、感動することです。心が動かされる法話を聴いたことはありますか?神秘体験ではなく、その体験こそが重要ですよ。なぜなら仏教はお釈迦さまが法話の旅をして広められた宗教なのですから。
1つ目の法身、これは真理そのものを仏と呼びます。この世界の全てには原因と結果があります。過去・現在・未来にわたって原因と結果が繋がり、網の目ように広がっている…その網のような繋がりそのものです。それを密教的では仏の位置関係、つまり曼陀羅(マンダラ)で表現し、禅では目の前に広がる山や川そのものであるとか、日常生活の1つ1つの中に見るのです。だから仏教は自然信仰と相性が良いわけですね。
お坊さんは仏像の向こう側に、世界そのもの(法身)、救われ救うことへの願い(報身)、お釈迦さまから自分に至るまで連綿と受け継がれてきた教え(応身)、その3つを感じています。そしてそこに感謝と敬意を感じながら手を合わせるのですよ。なんだかよく分からないけど信じるのではありません。『感謝と敬意』です。それがキリスト教的な信仰ではない、仏教的な信心です。
「ピカーン!おめでとう!これが信仰の証だ」とはならない
こんにちは。
「仏」というと仏陀、真理を悟った仏教的理念の体現者をいいます。
一般的にはお釈迦さまを指しますね。お釈迦さまは、歴史上の実在の人物ですので、「あなたは仏の存在を信じますか」という質問は「あなたは徳川家康の存在を信じますか」という質問に等しいです。
また、確かに仏教でも「信じる」という言葉を使いますが、仏教では「神(目に見えない形而上的存在の大きな力)の存在を信じる」的な「信じる」とは違い、「帰依する」(心の支えとする)という意味合いで使用されていると思います。
ここで私の体験談を入れます。
私は、中学生の時に、希望の高校に入りたくて、毎日熱心に仏さまを拝み、写経をしたりしました。
でも、結果は不合格でした。
これが私の経験した「不思議な出来事」です。(笑)
ああ、仏さまにお祈りしても効かないんだ、ちゃんと勉強しなくてはダメなんだ、って気がつきました。
もしかしたらあなたは、拝むことで、「ピカーン!おめでとう!これが御利益だ」ってそういうのを期待していますか?
多分、仏教ってそうじゃないと思うんです。
もちろん、拝む姿は大切です。
でも、私の体験したように、「ちゃんと勉強しなくちゃ合格できない」って事です。
原因がなければ結果がないのです。これ、お釈迦さまが気づいた事。
仏教って現世利益的なものじゃないって事です。真理に気づくって事なんです。
仏壇の前で手を合わせることはとても良いことです。でも現世利益的なお願いはだめです。何か願い事があったらそれに向けてきちんと努力しましょう。その中での祈りは有効です。また感謝の気持ちで拝むことも大切です。
もうひとつ、仏教の戒律に「不謗三宝戒」(ふぼうさんぼうかい)があります。仏教の教えに疑いの念を起こしてはならない、という教えです。
「本当にこれでいいのか」と思っていては、心は救われません。是非、あなたの全身全霊をかたむけ、拝んでください。
仏と
拝
仏壇の前で真にご先祖様に感謝し
冥福を祈る時の心体そのものです
他の幸せを思う事が
それ即ち全てが仏なのです
そして現実社会でも他を思い
そして行っている瞬間
芽生えている善そのもの
これが仏
そして欲や不安に乱される不安定な心をしっかり捉え
善を行い徳を積む
これがブッダの教えです
ヒマジンさんと同じように
雑念との葛藤を払いながら
我々僧侶も修行しているのです
しかし己が不動な時はそんな雑念はかすめもしないものです
神秘体験や不思議な事はあっても
一般社会と同じであまり公に話される事は少ないかもしれません
私としてはなんでもない夕日や朝日を神秘的と思える人間でありたいですね
合掌
法身・報身・応身の三身
仏には、法身・報身・応身の三身があります。
つまり、仏様には三種類あると言えます。
法身とは、宇宙の真理そのものを仏様だとみなす場合です。
大日如来(ビルシャナ仏)などがそれです。
報身とは、修行の結果(報い)として悟った仏様です。具体的な人格的存在であり、我々の世界では2500年前に80歳で入滅されたお釈迦様が報身仏です。
西方極楽浄土の阿弥陀仏も法蔵菩薩が修行の結果悟った報身仏です。
最後に応身仏とは、仏様が衆生を救うために変身して現れる、応化身です。
日本では、日本古来の神様もその正体(本地)は仏様であるという信仰・思想も登場しました。
天照大神は実は阿弥陀仏の化身だ、とか。
また、浄土宗では、中国唐の善導大師を「阿弥陀仏の化身」として慕っています。
(善導大師ご自身がそう言ったわけではないですが。)
肝心なのは、仏様のストーリーとキャラに共感できるかどうかではないでしょうか。
例えば、すべての衆生を救いたいという阿弥陀仏の誓い(慈悲)に共感・賛同するかどうか、です。
仏教の平等の慈悲の心が、経典に出てくる阿弥陀仏の物語によって生き生きと語られているので、私達も「みんなが救われたらいいな」と共感できるのです。
質問者からのお礼
吉武文法先生、光禪先生、丸山晃俊先生、願誉浄史先生、大慈先生、 ご回答有難うございます。
吉武文法先生、ハイ!私も「はたらき」という表現が、一番しっくりきます。
光禪先生、そうですね、現世利益を望んでいるところもあったかもしれません。
丸山晃俊先生、僧侶の方々も日々、雑念と葛藤を抱えて修行なさっているんですね。少し安心しました。
願誉浄史先生、”仏さまのストーリーとキャラ” 実は私、ほとんどの仏さまのことは、名前とお姿しか知りません。不勉強を実感しました。ちなみに私の一番の憧れであり、人生の指針と仰いでいる仏さまは、法華経の常不軽菩薩様です。
大慈先生、残念ながら私”心動かされる法話”を聴いたことはまだありません。そもそも自分同様、肉体を有し活動している、生きた人の言葉には興味が薄いのかもしれません。自分は密教が好きなので、やはり超自然的なことに強く惹かれます。インテリタイプの人には馬鹿にされるかもしれませんが...。
各先生方。 私の拙い質問に真摯にご回答下さいましたことに、改めて感謝申しあげます。