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仏教の本質

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仏教の本質とはどのような教えですか?

宜しくお願い致します❗


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

中道

仏教の目的は「成仏」することです。
成仏とは,仏になるということです。

ですが、本質はと聞かれれば、この世に多種多様な苦しみがあっても、それに振り回されることのない自分をつくることということでしょうか。

何者にも囚われず、自分自身が常にニュートラルな状態と言ったら解りやすいかも知れません。

仏教ではこれを「中道」と言います。

仏の世界は果てしないものです。
この世で我々が目指せるとすればそのあたりまででしょうか・・・

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キーンコーンカーンコーン

たとえば学校のチャイムが鳴ります。
キーンコーンカーンコーン♪
それが鳴れば、絶対に、誰にとっても「その通り」になる。
キーンコーンカーンコーン♪
老若男女とわず、洋の東西をとわず、宗教宗派を問わず、かならず、その通りになる。
「私にはキーンコーンカーンコーンが❝おーれーはジャイアンー♪❞と聞こえる人は絶対にいません。現実のチャイムの音は厳密には文字にすらできませんし、人間によって文字化も意味づけもされていない状態です。
もし、そういう風に聞こえる人がいたとしたら、それは思いの上で、二次的な取扱いを起こした世界、自分独自の世界で聞いている姿であって、仏法の世界・法界のままとして聞いている姿ではないのです。
キーンコーンカーンコーン
万人が等しく、見えた通り、聞こえた通り、その通りになる。
そして、そこには、良いも悪いもついていない。
向かえば、ただ、そのことがあるだけ。
人間は、第一次点では、みな平等に、出逢っている、触れている出来事を享受している。
そこが、万人の共通ルール(仏法)なのです。
だれもが、ここに気づいて、自分の思いを重ねる以前の世界「いま・ここ・そのこと」に気づけば、自分の独自の思い方を離れて「救われる」のです。

どんなことも、いま、目の前の、そのことに出逢った時は、ただ、その通り。
自分の好き嫌いの思いや、価値判断を加える以前の世界としての それ です。
一切が、その通りのそれで、THIS IS IT で THIS IS THIS です。
ところが、現実の世界では、学校のチャイムが鳴ると、多くの人が、
その音を聞いた直後、即座に「個人の思い方の上でだけ」各自の中で異なる。
「ああ、もう休み時間終わりか」「よし、頑張るぞ」「ああ、眠い」
これがセカンド・ワールドである人間世界です。
ファースト・ワールドである仏の世界は、平等にキーン、コーン、カーンコーン🎶
そこに何の善し悪しもついていない。
ファースト・ワールドのまま、過ごしてください。
キーン、コーン、カーン、コーン♪
これ、仏教の根本にして、本質なり。
この世の本質が仏教であり、根本です。
我かくの如し 汝もまたかくの如し
いつでも 目前の世界は それが ただ そうある
その事をチャイムの音にたとえてお話を致しました。
はじめに言葉ありきは人間の世界。
はじめに事実ありきは仏陀の世界。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

縁起など他にもいろいろ言えるでしょうが、ここでは七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)をご紹介します。

諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く(なく)
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい) ― 自(みずか)ら其の意(こころ)を浄くす
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり

七仏通誡偈は、仏教で釈迦以前に存在したとされる六人の仏と、釈迦を含む七人の仏(過去七仏)が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈(定型詩)で、『法句経』などに収録されている。 上座部仏教及び禅宗に於いて特に重んぜられ、禅宗では日常の読経にも取り入れられている。(Wikipediaなどを参照)

心が清らかなら、悪はなさないようになりおのずと善をなすことになるので、心を清めよというのが仏教の本質であるということができます。

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個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

仏になる為の教えです

仏教ではさまざまな智慧や戒律などが説かれます。
それら全て「仏になる為の教え」です。
『頑張ってよりよい人間になりましょう』ということは目的ではなく(過程としてはありうるのかもしれません)、あくまで『成仏』を目的とした宗教です。

仏教を学ぶということは仏になる道を学ぶことであり、仏教を信仰するということは仏になる道を歩むことです。
仏へ成る方法は沢山あって、「どうやって仏になるのか」その方法の違いが宗派の違いだと言えるでしょう。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

四諦(したい)です。

四つの諦(真理)、四諦が仏教の骨格です。
苦諦くたい、集諦じったい、滅諦めったい、道諦どうたいの四つです。
苦諦(生きることは苦しみ・不満の連続だ)
集諦(苦の原因は煩悩だ)
滅諦(煩悩を滅すれば苦を滅することができる)
道諦(煩悩を滅するための方法がある)

最後の道諦は、仏道修行のことです。
四諦の原理に基づいて、仏教を学び実践するのです。
つまり仏教とは、悩み苦しみをなくすために煩悩をなくす方法論・実践論なのです。

煩悩をなくすためには、誤った認識に気付く必要があり、そのために説かれるのが、苦・無常・無我や、涅槃寂静(煩悩がなくなった涅槃こそが究極の平安である)、縁起・空、十八界・五蘊(ごうん)などの教えです。

仏教で目先す善とは、苦悩をなくす方向、煩悩を弱める方向のことです。
仏教で止めましょうという悪とは、煩悩を強化し苦悩を増やす方向のことです。
悪をやめて善を行えというのも、煩悩をなくして苦しみをなくすようにせよ、という意味です。

悟りとは、煩悩がなくなること。
煩悩は細かく分類すれば無数にあるし、一番大雑把に3つに分類すれば、欲・怒り・愚かさの三毒煩悩となります。
また、煩悩を大きく10種類に分類することができ、10種類の煩悩は消えてゆく順番(悟るときの順番)も決まっているそうです。
たとえば、悟りの第1段階と言える預流果(よるか)の悟りでは10種類の煩悩うちの3つ(有身見・疑・戒禁取)だけが消える、らしいです。
消えた煩悩は二度と復活しないそうです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

「智慧と慈悲」

1962tron様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教の本質と聞かれましたら、既出の「四聖諦」、「七仏通誡偈」、「中道」、あるいは、「空」や「縁起」の教えといったものが想起されます。

そこで、あえてとなりましたら、拙生は、「智慧と慈悲」を挙げさせて頂きましょう。

悟り・涅槃へと至るためには、「智慧と慈悲」の二つを十分に備わせていくことが必要であるとされます。

「智慧」は別名では、「般若」とか「般若波羅蜜」、「慈悲」は、別名として「方便」、あるいは、「福徳」と言う場合もございます。

「智慧」は真理を悟る賢さのことで、簡単には、「空」を悟ることになります。

「慈悲」は、全ての迷い苦しみある者たち(一切衆生)を救いたいという心を養って、利他行や善徳行、功徳に励むことでございます。

例えば、大日経においては、「智慧の中の智慧(最高の智慧)は、何を原因とし、何が根本であり、何が最高の究極的なものであるのか」という金剛薩た(土へんに垂)の問いに対して、毘盧遮那仏が、「(勝義)菩提心(悟り[最高の智慧の完成]を求める心)を原因として、大悲(大慈大悲の心)を根本として、方便が究極的なものになる」とお答えになられておられます。

悟りとは、勝義知・一切知とされる最高の智慧に達することであり、「空」を完全知覚して、全てを遍くに知ることのできる境地となります。

そこに至るために必要となるのが、まず悟り(最高の智慧の完成)を目指す発起心としての「菩提心」となり、全ての迷い苦しみあるものたちを救ってあげたいという「大悲」の心を持って、善徳・利他の功徳の行いに努め励むことによって、やがて悟りへと至れるように調えていくことが大切となります。

「拙理解仏教図式No.7」
http://goo.gl/JauGML

上記拙図では、「空」を悟るための道筋について少しだけ簡単に述べさせて頂いておりますが、勝義知・一切知とされる最高の智慧の完成へと向けては、その妨げとなっている「煩悩障」と「所知障」を段階的に取り除くために、智慧の修習と慈悲の修習、双方をしっかりと進めることが、悟りへと向かうために必要であるとして、しっかりと取り組んで参りたいものとなります。

是非共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

毎回丁寧な解答有難うございます。
参考になりました。

仏教の本質とお葬式は関係ないようですね。

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