価値のあるものとは何でしょうか
よろしくお願いします。
「世の中、お金がすべてじゃない」という言葉をよく耳にします。
「しかし、この世の中、いい大学を出て、大きな会社で働いて、お給料をたくさんもらって不自由のない生活をするのが幸せ」
というような雰囲気を感じています。
特に自分のように、まともに社会に出たこともない人間にはそのような雰囲気や考え方はとてもつらく、むなしくなります。
その考え方は間違っているとは100%言い返せません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お金で手に入る自由は有限、宗教の目指すところは無限
「世の中、いい大学を出て、大きな会社で働いて、お給料をたくさんもらって不自由のない生活をするのが幸せ」
私もこの考えが100%間違ってるいるとは思いません。しかし100%あっているとも思いません。
なぜならお金で手に入る自由では究極的には不自由さを超えられないからです。
では世の中で一番大切なものは何でしょうか?やはりお金でしょうか?それとも地位でしょうか?名誉でしょうか?健康でしょうか?愛でしょうか?あるいはその全てでしょうか?
ある意味その全てを捨てた方がお釈迦様です。お釈迦様は王子様でした。ですから財産はあったでしょう。そして将来の地位も名誉も約束されています。そして若くして人生の伴侶も得ました。
しかしお釈迦様は気づいてしまったのです。これら全ては無常であることを。全てのモノ・コトは移ろい変わり、これら世間で手に入る物では生老病死は超えられないことを。
お釈迦様が国を捨て財を捨て出家されたというエピソードはそうしたことを象徴しているのだと思います。
お金があっても永遠のいのちは得られません。やがて老い、病み、死に至ります。
お金があっても人の心は買えません。仮に買えたとしても心は常にとどまってはいません。人の心もまた移ろい変わります。
お金も愛も健康も、この世間で手に入るもの全てはやがて無常なる風に吹かれて過ぎ去っていきます。
ここに人間は苦を生じます。
全てを求めてやまない渇愛が、手に入れたものに固執する執着が、それらは無常であることに目覚めない無明が、生老病死の現実の前に煩悩の炎となって身を焦がします。
慢性的欲求不満症である人間は有限なものでは満たされません。そして自ら自身が有限であることでもまた苦しむのです。
ではどうするか、ここからが宗教の出番です。神であったり、仏であったり…有限を超えた無限なるものとの出会いが宗教です。
無限なるものに触れた時、人間は心の底から満足します。お金があろうがなかろうが、どんな境遇であれ、私が私で良かったと、これが私の人生であると満たされるのだと思います。
そのためにはみんながみんなお坊さんや牧師さんになる必要はありません。その人がその人の選択した道を真摯にひたむきに歩む中で、無限なるものに触れる瞬間があるのだと思います。
私にとってその道は仏道です。きぼう様はどんな道を歩まれるでしょうか?
掴むことではないのかも
こんにちは。先の質問も併せて読ませていただきました。
ご自身の進退から、だんだんと抽象的な所へ考えが及んできたのですね。それは悪くないと思います。
ただ、まだ余り掘り下げていなくて、何となく力ない言葉にしかならない。
「世の中、お金が全てじゃない」、その通りだと思いますよ。人間が稼げるお金なんて、大したことないのです。でも今のあなたは、それを明確に否定できない。そりゃそうです、まだ社会に出ていないんですから。けれど一文無しで生きていけるか?と問われれば、それもまた無理なこと。どうやら答えは「極端でないところ」にありそうです。そのバランスをとるポイントは人によって異なります。だから、まず「自分なりのバランスを見つけるのが大事」なんだと知ってください。それは誰かに教えてもらうところではありません。また、誰もが「バランス取れている」と自覚しているのでもなく、一旦バランスが取れればもう堅固になる、というものでもありません。
私たちが生きているということは、常に変化していることであって、常に「バランスを取ろう」と能動的に働きかけなければならないのです。このメタ認知自体は不変です。
あなたはもしかすると、「まずゴールを設定しよう。それが設定されたら、そこに向かおう」と考えているかも知れませんが、そのやり方はうまくいかないものです。また、ゴールというのは、自分が動くに連れて変化していくものです。動きながら考える。少し進んで一歩立ち止まって考える。それが生きるということなのです。
敢えてあなたの言葉を否定しておくと、「不自由のない生活」はあり得ません。それを「あり得ない」と見切ることからスタートするのが良いと思います。ましてやお金によって解決される「不自由」はほんの少しです。人間の問題の大半は、行動すること自体によって解決していくものです。
では主題の「価値あるもの」とは何か。私に言わせれば、「極端に陥らず、かと言って諦めて立ち止まるでもない」という、「自転車をこぎ続ける」ことだと思っています。如何ですか?
人類の宝となる生き方
のび太君どうして寝てばかりいるの!
んー、ドラえもん。ほっといてよ。むにゃむにゃ。
寝てばかりだといい学校に行けないんだぞ!
いい学校行ったからってなんなのさドラえもん。
いい学校行けばいい会社に入ってお給料いっぱいもらえるんだよ、ノビタ君。
給料いっぱいもらったらどうなるんだよドラえもん。
給料いっぱいもらったら寝て暮らせるんだよのび太くん。
じゃぁ、僕寝てるから幸せだねぇ、ドラえもん。
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「価値あるものは何もない」 福岡正信
元っ元どんな物にも誰もが納得する価値はついていないものです。
本当に悟っている人でも、その真価真意がわからない人にとってはAKBの方が大切なのです。
どんな素晴らしい教えも、その価値がワカランものには紙切れです。
中国人がかつての文化や宗教を全部壊してチベットの仏教や言語まで取り上げてしまうのも、その価値を知らんからでしょう。それについて黙殺している観て見ぬふりをしている私たちも本当に価値のある生き方に目覚めていないから、いじめや虐殺を無くす事より、黙って保身している方が価値があると思うのでしょう。
不便だ不便だからと言って開発、開発。私の最寄り駅は180億もかけて駅前開発しましたがかえって不便になりました。
では本当に価値があることとは何か。
国の宝、世界の宝とされるものがあるでしょう。
仏教もその一つです。
その教えの中枢は物事の根本を学ぶことです。
自己の真相、この世の真実実相を知ることです。
自己やこの世の真相を悟るには、仏道修行をして己の見解を捨て去って捨てて捨ててただの人になり、平凡平凡大平凡に徹することです。
そうすると心は泉のごとく智慧、慈悲、勇猛心、柔軟心、独創性、観察力、行動力なんでもホイホイ出てくるのです。自分が納得のいく人生が手に入る。それ以上価値のあるものなどないでしょう。
それを知らずによそばかり求めているから人間の外に対するむさぼりはやまないのです。
あなたは求めるべき先を知った類まれなる人の一人となったのです。価値あることです。
ソフトバンクグループのARM買収に思う・・
きぼう様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
昨日(2016.7.18)にソフトバンクグループが英半導体大手のARMを3兆3000億円(240億ポンド)で買収するというニュースがありました。
孫正義さんが、「世界一になるものがほしかった」と理由の一つを述べておられたのが印象的でした・・
次期後継者と目されていた副社長への禅譲の撤回と副社長の退任、そして、数々の大型事業売却・・その布石の結果としてのARM買収・・
確かに、便利なIoT社会へ向けてARMの持つ潜在価値は高いものがありますが、巨額買収の目的の一つには、個人的な野望である「世界一」のためでもあるのか・・と少しだけ寂しくなりましたね・・
まあ、IoT社会が進めば、それだけ便利さ、快適さ、豊かさを享受できるようになるかもしれませんが・・それでも、吉武文法様もおっしゃられていますように、人間の悩み苦しみ、四苦八苦から逃れられることができないのにはほとんど変わりはないでしょう。
3兆3000億円あれば・・現に貧困や戦争、災害、疫病、難病などで苦しんでいる人たちをどれだけ救うことができるのだろうか・・と少し思ってしまいましたが、IoT社会となれば、またそれはそれで人々の役にも立ち、救われる人々もあるだろうかとは思います。
お金は必要ですが、大切になるのはやはりその使い方です。
できれば、自分も他人も同じように為になるような使い方をしていきたいものとなります。
要は、ビジネスで言えば、「売り手良し」、「買い手良し」、「世間良し」の三方良しですね。
仏教では、何よりもやはり、真理を説く法が大切となります。お金などではとても換算できないものでございます。また、お金で得れるようなものでもありません。何より己自身の修養が大切となります。
自灯明、法灯明。悟り・涅槃へと向けて、是非、仏教の学びも進めていって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌