出家するということ
こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。
俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。
そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。
ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。
出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。
学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。
ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。
それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか)
出家しないと得られないこととはなんですか?
また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか?
お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。
子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。
回答お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
特に違いはない
出家とは読んで字のごとく、家を出ること。家族を離れ、自分を知るための修行にのみ専念しいきることでしょう。
そうした意味から行けば、現在の日本の仏教において、本当に出家している僧侶は少ないでしょう。世襲しているお寺が多いことを考えると、出家とは形ばかりになっているように思います。
在家も、出家も同じ人間。どちらが良くてどちらが悪いという事もないです。どちらでも、仏道とは何か、自分とは何かということをしっかり追求し修行していけば、必ず救われるのが仏教でしょう。
どんな立場の人でも救われる道だから、本物なんだとおもいますよ。
今の場所でいいのです
出家しているお坊さんに怒られるかもしれませんが、必ずしも出家がいいとは限りません。
世俗から距離を置いた日々の生活と瞑想で貪瞋痴の三毒を捨て生きることは良い仏道修行であります。
しかし、世俗から離れるあまり井の中の蛙となり、世俗の人達より自分の方が尊い存在だと思い込み、かえって私利私欲に落ちてしまうこともごく稀にあるのです。
ですから、あなたの場合も今の場所で修行されるのがいいと思います。捨てるべき貪瞋痴の元は好き、嫌い、無知です。好き、嫌いの感情が無いのは人としてつまらないので少し抑えるくらいで、そして、無知にならないように色々な事を色々な視点で知りましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
そうですね、私がお坊さんの生活に憧れるのは無い物ねだりな部分もあるような気がしてきました。
出家してもたいしたこと有りませんよとか、本当の意味で出家しているお坊さんは少ないですよ、と言われると出家は沢山あるうちの一つの道でしかのかもしれませんね。
そうかもしれませんが、こうして無償で私たちの心の迷いに手を差し伸べ、こころの闇に光を照らしす言葉をくださるここでのお坊さん方には大変感謝、尊敬しております。