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僧侶の修行

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こんにちは。

ふと気になったのですが、僧侶の方は僧侶になっても定期的に修行をするのでしょうか?

簡単な質問をして申し訳ないです。。。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

はい。

修行しますよ!
決められた修行もそうですし、日々の生活の中にも修行と同じ要素があるものを見出す時もあります。

僧侶になっても、仏に成ったわけじゃないので修行頑張っています。

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hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

山登りは頂上に登って終わりではない

個人的見解ですが、修行を山登りにとたとえますと初心者はまず、山登りがつらい状態です(1)。それが辛くならなくなる心の状態(2)を山登りという修行(1)をしながら探して、見つけます。
そして2を見つけたら状態をキープしてさらには個人的な思いを離れて無心状態(3)に突入。さらには黙々と只管に行っていく三昧行(4=修証)が大事なのです。
たとえば走るのが嫌いな人は、まず、走って(1)ある程度ならす必要があります。
「走るの嫌だ 嫌いだから」という状態では、まだ円滑修行状態=山登りが苦にならない(2)ではないのです。
「あ、走るのって、気持ちいいな」と思えれば、修行のコツを会得した(2状態)と言えます。
イヤイヤながらも坐禅でも読経でも料理でも仕事でも行じてみる(1)。そうしていると、ある時から「あれ?今まで嫌と思っていたけど、全然OK。気にならなくなった状態」(2)になります。そこからさらに進めていきますと「考え事がまるで沸かない状態、沸いて来ても気にもならない状態 出てきても手をふれない状態」(3=見性 悟り)になります。多くの人はここで悟ったオレスゲーと思い込んでしまいます。
たしかに3に到達するのはコツが要ります。単に出てくる思いを取り扱わないだけでいいのですが。
でも3になって終わりじゃないんです。ここからが修行。その状態をキープして自分をよく見てみる。何を行うにしても思いによって影響されなくなる。その状態を維持していく。それを修行ではなく修証(4)ともいいます。物事を行じながらも、思いが沸き起こらず、沸き起こっても影響されない状態。
さらにその4という状態を続けていきますと、ある時、境が取れます。底が抜けます(5)。脳が言語的脳から、総括的な脳に切り替わるとでも言いましょうか。自分が自分の身でありながら、このもの(身心)を「私だ」とも意識されない状態。自他・内外なく、その事と同化している状態になります。それも識されない状態です。
これが修行であって、道場で修行生活を送っていれば修行かと言えば必ずしも修行とは言えないのです。修行は、場所・内容ではなく「修行になっているかどうか」の中身。
12345も通り越して自分の思いからフリーになって苦から救わていないと、わたし共の業界に限っては仏道修行状態ではないのです。興味があったらお寺に来て体験してみてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

やはり、そうなんですね。
ありがとうございますm(_ _)m

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