死後の世界観
初めまして。
私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。
私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。
ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。
仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。
私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。
先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。
もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。
人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。
こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
理屈っぽい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教とは仏になる道なり。
仏教とはなんでしょうか?
学問として系統だてることは、意義や価値があると思います。
果たしてそれが、あなたの信心を深めていますか、
むしろ迷いの淵に浮き沈みしているように思えてなりませんが、
これは私の気のせいでしょうか。
お勉強されることは尊いし、大切なことです。
あなたはよく学ばれていらっしゃると思います。
ただ、信ずるということについて、もう一度お考えていただけたらと思います。
仏教とは、正覚、悟りを拓いて仏さまになる道です。
富士山登山に例えれば、
山梨県からの道、静岡県からの道もあります。
一合目から歩く、5合目まで車で方法、
いっそのこと、ヘリコプターで、頂上に降り立つ方法もあります。
いろんな方法があるのです。
ですから、私は、仏教は、仏道、仏様になる、仏様を目指す道であると、
考えています。
歴史的に分けると、
①原始仏教(根本仏教)紀元前4世紀ごろ、
②部派仏教(アビダルマ)・・・紀元前3世紀ごろ
③初期大乗仏教(中観)・・・紀元前1世紀ごろ
④中期大乗仏教(如来蔵・唯識)・・・3世紀ごろ
⑤後期大乗仏教・・・7世紀ごろ
と分けて、回帰する向きもありますが、それはそれで、
一つの選択に過ぎないと思うのです。
好きなものを選んだらいいのです。
私は真宗ですが、輪廻転生を否定しませんしよ。
また、全ての罪業が許されるのだから何をやってもいいというのは、
極論であると思います。
往生したら、極楽浄土という阿弥陀さまの作られた世界で、
勉強させていただける身の上になるという理解です。
そのための研鑽を怠ってはいけないと常に自戒しています。
死んだら私は、阿弥陀様の身許にまいらせていただく、
その大安心をいま戴いているから、すでに私はいま幸せであり、
これからもずーと幸せであり続けるのです。
悟り、正覚はその過程で、得られるかもしれないし、得られないかもしれない、
しかし、その道は凡愚である私には計り知れませんので、
阿弥陀さま、親鸞聖人さま、法然聖人さまをはじめとする諸先達に
従うまでです。
仏教とは、仏様になる道、迷いを離れる道であり、
いろいろな方法があってもよい。
その中で自分してひらめいた道を選び取る。
そして信じ切る、そこに信仰と信心が生まれる。
信じる道を感謝と報恩の思いで歩かせていただだけです。
南無阿弥陀仏
私としては
輪廻の解釈も来世の世界という解釈があれば、現世の精神状態という解釈もあり宗派や人によって様々ですが、お釈迦様の教えの目的は、輪廻からの解脱という難しい話の前に、苦を無くす、ということだと思います。
解脱は苦を無くす方法、あるいは苦が無くなった状態ともいえます。
つまり、お釈迦様の教えとは、生きている間の苦を無くす為の方法なのです。
その方法は無明を無くすことですが、分かりやすいように、行いやすいように、お釈迦様は対機説法で人々に説いて歩きました。
その為様々な教えがあるのです。
また、その後多くの弟子達も人々を救う為に、お釈迦様の教えを元に、様々な方法や解釈で説きました。
その為結果として教えは膨大な量に増えました。
また、どの教えが自分に腑に落ちるか、という事で、多くの宗派に分かれました。
ですが、どの宗派も元の目的は同じです。
苦を無くすことなのです。
考え方や解釈や方法が違うだけです。
例えば、アルボムッレ様にはアルボムッレ様の納得する教えを信仰し実践し、私は私の納得する教えを信仰し実践するだけなのです。
目的は同じですから、根本的には両者は相反することではありません。
覚りという山の頂に登るのに、東から登るか、西から登るか、という違いなのです。
現世で善を行うのは、来世で幸せになるという解釈もあれば、現世で幸せになるという解釈もあります。
どちらも正しいのです。
大切なのは善を行うことなのです。
みんなが善を行えば、みんなの苦が減り、みんなが幸せになるでしょう。
極楽浄土があると信じれば、死の恐れや不安、亡くなった人との別れの悲しみ、これらの苦が減り、前向きに生きていけるでしょう。
自死は場合によっては否定はしませんが、なるべく避けなければなりません。
私達は1人では生きていませんよね。
諸法無我ともいいます。
死ねば縁のある人を悲(苦)しませます。
死ねば誰かの苦を無くす為に行動することができません。
それに私達の心臓などの細胞は生きたいと頑張っていますね。今まで休みなくお世話になっているのに勝手に殺してはいけないのです。
全ての教えは苦を無くすために。
全ての教えは前向きに生きるために。
自灯明(自らの考えを頼りに)、法灯明(この世の理を頼りに)、お互い前向きに生きていきましょう。
昔の人は含蓄を好むので裏読み深読みが必要
字数制限のため削除して追記
はい、おっしゃる通りです。その混乱について上座部では「出家しないと完全に善の中で生きることは無理」とハッキリ説いています。スマナサーラさんも同様です。でもそれでは取り付く島もありません。上座部圏では「男性は一生に一度は出家しなさい。1ヶ月くらい休職しても良いです」という社会ですからこれが通用します。しかしこの上座部の論理を日本の一般の方々にいきなりぶつけてはダメなのですよ。生じるべくして生じさせられた疑問です。その本はもう開くべきではありません。正しい間違いの話ではなく、対機説法の問題として。
じゃあどう考えるべきか?削除した回答の中に修証義の総序(第一章)に上座部と同じ輪廻観が書かれていると書いていました。これに対して二章以降がその問題提起に対する回答になります。「治生(ちしょう)産業もとより布施に非ざること無し」などまさにピンポイントでこれですよ。仏教は心の薬だと言われますが、腹痛に鼻炎の薬を飲んでも体調はおかしくなるばかりです。独学では救われません。
PCデポのような布施行が全く許されない職場に染まるくらいなら、辞めてしまった方が自分のためです。しかし仕事はよほど引っ張りだこでない限り自由に選べるものではありません。とりあえず辞めて途方に暮れてニートになれば良いというものでもありません。それは程度の問題であり、また計画性や見通しの問題です。
そして仕事は自由に選べないからこそ、私は四章の四摂法(ししょうぼう)という教えから「日常のちょっとした親切心を大切にしましょう。そうの積み重ねで心が晴れやかになります」というのを好んで説いています。
http://hasunoha.jp/questions/11462
ニュースで何の罪もない人たちが亡くなっていくのを知って居たたまれない…だから読経させて頂くのです。亡くなった方は輪廻とか極楽以前に神に救われる人かもしれない。でも、何の力にもならないかもしれないけど何かさせて頂きたいから、ご冥福を祈らせて頂くのです。親切を『させて頂く』のです。
あるいは私がこのような場で親切心を説くのも同じです。他人への思いやりの連鎖が広がれば、広がった分だけ世の中は良くなる…それが何よりの供養になる…だから説くのです。
本ではなく、お寺に行きましょう。お寺にこそあなたに必要なものがあります
浄土真宗の場合は
まず、浄土真宗の場合は、死んだら、なにも残らないとは考えません。
今、私達は、なにかを感じ、考えています。
そのような作用を「識」といっています。
では、「識」は生まれたとたんに発生して、死んだ途端に消滅してしまうのでしょうか?
そうも考えません。
仏教は、因果、縁起の教えです。
「識」が存在しているということは、相互依存的な関係で存在しているのです。
周囲と無関係に、突然生じたり、突然消滅したりはしません。
ある出来事には必ず、原因があり、それを可能にする条件が必要です。
ある出来事は、必ず、別の出来事の因となり、縁となります。
このように、すべての出来事、存在は、相互依存的なものです。
「識」だけが、生まれたときに、突然なにもないところから、発生し、死んだら突然周りになんの影響も及ぼさず消滅するということは、因果、縁起の道理からいってありえません。
では、お経に書いてある極楽浄土の描写はどうでしょう?
死んだあとどうなるかは、生きている人間にはわかりません。
お経は、今生きてる人間のために、今生きている人間が書いたものです。
ですから、お経に書いてある表現は、極楽そのものではなく、極楽を今生きている人間のために説明するための、比喩でしかありません。
(これを方便法身といいます)
「極楽は存在するのか?」という問いに、ある僧侶がこんな回答をしていました。
・あなたが想像しているような、想像がつくようなかたちでは存在しません。
・しかし、人間が想像可能な虚無ではありません。そういう意味なら、存在します。
私もそう思います。
死んだあとも、今生きている自分の意識、人格がそのまま継続するという考えを、有の邪見といいます。
これは間違いです。
死んだら、すべておしまいで、なにも残らないという考え方を無の邪見といいます。
これも間違いです。
浄土真宗で大切にする「正信偈」では
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge35.html
このように、とらえています。
共に仏道を歩まんことを
こんにちは。拝見させていただきました。
仏教に興味を持たれ本なども読んでおられるとのこと。大変尊いことだと思いました。
私個人の教えの受取の上でお話させていただきますが、仏道の目標は成仏にあります。成仏とはいわゆる心の汚れ(煩悩)が消え去った状態になることであります。心の汚れが消えないと、その汚れは輪廻(生まれ変わり)の中でも受け継がれ、何度生まれ変わっても苦しみから逃れることはありません。この苦しみの輪廻から抜け出すこと、終わらせることが目標でしょう。伊藤様の仰るとおり、死んで終わりなら修行の必要はありません。死んでも苦しみから逃れられないという自覚にたって始めて仏道が始まるとも言えます。
仏道はこの世において修行を完成に成仏する道です。しかし、修行できない人はどうなるのか。そういった人のために説かれた道が「浄土へ往生する」という道です。仏様のおられる清らかなる場所に生まれさせていただいて、仏様直々についていただいてそこで仏道修行をし成仏するという道です。特に日本ではこの世においての成仏は難しいと考えられ、往生することが目標となりました。死んで浄土という考えは一般的にはなっていますが、死ねば誰でも浄土に往生するとは浄土真宗でも説かれてはいません。信心をいただきお念仏する人は生まれることができますと説かれます。
近代前は輪廻や往生という言葉はよく使われていましたが、近代になって西洋哲学などが入ってくるようになると、あの世や輪廻など証明できないようなことは「迷信」とされ、近代自我をどうするのか、当時のインテリ達は西洋哲学に対抗し、日本文化は決して劣っていないということを証明するための仏教解釈を加えていくことになりました。これはこれで時代の流れですから是非はありません。そういった学者の影響はお坊さんにもあり、次第に死後の事について語らないお坊さんが増えていったのであります。
現代はそういった考えを見直し、近代は近代として、考え直そうというお坊さんも増えてきているように私は感じております。お坊さんもまた修行の途中、伊藤様と共にお釈迦様が遺してくださった成仏の道を大切に歩んでまいりたいと思います。合掌
質問者からのお礼
皆様、このような質問にも関わらず真摯にご回答下さいまして誠にありがとうございました。以下に、それぞれのお坊さまへの感謝と感想を述べさせて頂きたいと思います。
佐藤精徹様 ご回答頂きまして、誠にありがとうございました。「有の邪見」「無の邪見」という考え方が非常に参考になりました。おっしゃるように、因果の関係で「識」が発生しているのだとすれば、死んだら何も無くなるわけではないのだと思いました。そう考えると、とても安心できます。ご提示下さったリンク先も参考にします。ありがとうございました。
聖章様 ご回答頂きまして、誠にありがとうございました。「仏教とは、苦を無くす教えだ」というのは、本当にその通りだなぁ、と思いました。「自灯明、法灯明」というお言葉も心に響くものがあります。ただ、今の私はどうしても「真実を知りたい」という思いが強いので、死後の世界観にこだわってしまいます。そういったこだわりを捨てることが、 真の仏教の教えなのかな、と思いました。ありがとうございました。
三浦康昭様 ご回答頂きまして、誠にありがとうございました。おっしゃるように、私には仏教の教えに対する迷いがあり、それは勉強すればするほど膨れ上がるばかりです。私にも信心が生まれればどんなに素晴らしいかと思いますが、どうしても一歩踏み出すことができずに右往左往しています。もう少し迷わないといけないのかな、と思います。極楽浄土を信じておられるお坊さまが、輪廻転生を否定しないというお話は、非常に興味深く感じました。やはり、おっしゃるように「仏教とは、仏様になる道、迷いを離れる道であり、 いろいろな方法があってよい。 」ということなのかな、と感じました。ありがとうございました。
大慈様 ご回答頂きまして、誠にありがとうございました。大慈様のおっしゃる輪廻の解釈が非常に勉強になりました。上座部も日本の仏教も、輪廻転生の解釈は実は同じなのですね。私も「殺しようのない大きな自己に気付く」ことができれば、仏教の教えの真意が分かるのかな、と思いました。
ただ、この教えを日常の生活に活かそうと思うと、さらに疑問が湧いてしまいます。私はサラリーマンですが、日々の仕事の中で時々、何が善なのか分からなくなってしまうことがあります。仕事では、様々な競争に勝つために自ら悪事(と思われること)に手を染めてしまうこと(法に反することをしているわけではない)も少なからずあります。その際、会社のルールに従うべきなのか、それとも自分が考える「善いこと」を貫くべきなのか分からず、日々葛藤しています。また、ニュース等で何の罪もない子供が殺される映像を見ると、世の中の理不尽さを悲観して、つい「死後に善人が救われなければ、あまりにも可哀想じゃないか」とも思ってしまいます。私は、この娑婆で生きる道標として仏教の教えを学んできたのですが、この教えと現実の生活の矛盾にどう折り合いをつけるかという問題に対しても、解決する糸口はなかなかつかめません。
長文失礼いたしました。必要ならば、また新たに質問させていただきます。ご回答誠にありがとうございました。
健樹様 ご回答頂きまして、誠にありがとうございました。お礼が遅れまして大変申し訳ございません。健樹様のご意見は私の考えと共通するところがあり、大変参考になりました。やはり、私のような凡夫はどうしても死後の世界観を想定しないと不安になってしまいます。現実の生活と上手くバランスを取っていければと思います。ご回答ありがとうございました。