回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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▢〇△ これなんぞ ▢〇△ ただこれこれ
「▢〇△」
これが仏教です。(終)
(解説)
この記号は何という事もありません。
これを示されると、万人が▢〇△というように映る。
ただ、そのまま、ストレートに、この事(▢〇△)になる。
この同じ▢〇△が、人によって、✖◆●と映ることはありません。
仏教徒であろうとなかろうと。ただ、▢〇△。これがこうある。こればかり。
禅語でも、如是、ただこれこれ、などと言いますように、そのことがそのものを、すでに全て説き尽くしているのです。
そこに二の句を継がない。つけ足さないでいいのです。
誰かの口を通して、仏教らしい言葉に翻訳されなくても、現前の一切それがすでにそのままその通りであるという事が、覚者の説いた仏法の本核です。
仏教を本当に理解するという事は、この自分自身を明らめるという事です。
どこかに仏教らしいものを立てて、それを知識的にもとめることではありません。
何故なら、この自分の真実・真相の他に、仏教らしいことを求めてもそれはおそらく知識か思想的遊戯でしょう。お釈迦さまの時代には仏教のブの字も無かった。
およそ世間の方々はシャカ入滅後の二次的に生まれた副産物を頼りにし、仏教的な文字知識ばかり理解しようとして、肝心の中身に到達しない。だから仏教が分からなくなってしまう。
ご自分のたった今の様子をご覧ください。
ただ 今 このごとくにある。このようにある。その通りにある。
それが人のいつでもの真相です。
カラスがカアと鳴けば、ただカァということが間違いなくこの全身の上に行われる。
それが、きちんと、そのまま、うけがえさえすれば、誰でも、いつでも、そこで成仏なのです。ところが、成仏の道と、一般世間の道との分かれ道がここからです。
「何を言っているんだろう」
「仏教、成仏と言うのはそんなことではないだろう」
「それはどういうことであろうか」
というような、認識、理解、分別意識で探るゆえに、ますます遠ざけるのでしょう。
それは、そのものをその事の通りにそのまま受け取っている姿ではありません。
自分が、これぞ仏教であろう、と思い込んでいる事も一度捨ててみてください。
棄て切って、はじめてあらわれる目の前の真実。
そこには仏教というラベルすらついていない、お釈迦様が本当に気づかれた、本物の真実仏法があります。もう一度冒頭から読み返してみてください。必ず、見出されるはずです。
仏教=仏になる教え
簡単にまとめると「仏教」=「仏になる教え」です。
仏教を信仰するというということは、自らが仏になる道を歩むということです。
宗派や考えがたくさんありますが、それは仏への成り方がたくさんあると考えたらいいと思います。
大きく分けて聖道門と浄土門があります。
聖道門の場合は様々な修行によって仏になることを目的とします。
浄土門の場合は死んだ後に浄土へ生まれ、浄土での成仏を目的とします。
また多く説かれているのは仏様の智慧です。
「空」が説かれる般若心経が日本では有名です
「諸行無常」や「縁起」など仏様が悟られたこの世の本質がたくさんあきらかにされています。
悩み苦しみを消したり減らしたりする教え
生きることは苦しみである。(苦諦)
苦しみの原因は煩悩である。(集諦)
煩悩をなくして悩み苦しみを滅ぼすことができる。(滅諦)
そのための方法(仏道修行)が実際にある。(道諦)
以上、4つの真理(四諦)が仏教の基礎です。
また、煩悩を消せないままでも、煩悩をコントロールできれば悩み苦しみを減らしたり制御したりできる。
そのような教えを学び、信じ納得し、修行するのが仏教(仏が説いた教えであり、仏に成ることができる教え)です。
また、修行の結果悟った(煩悩をなくした)仏様や仏の弟子達、仏を目指して人助けしながら修行している菩薩、仏教を守護する神々(天)を拝んで心の拠り所としたりする信仰もあります。
煩悩がなくなり、生き物の世界から卒業(解脱)することを涅槃と言います。
涅槃を目指すのが、仏教の特徴です。
煩悩の根源、無明という煩悩は、まだまだ生きていたいという執着・不満です。
食べることに満足した人は食べるのを止めます。では、生きることに完全に満足したら?
輪廻からの解脱、平安なる滅び、余すことなき涅槃(ニルヴァーナ)です。
質問者からのお礼
みなさん、回答どうもありがとうございました。