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悟りすら単なる概念?

悟りとは
実はすべて幻だった!ときづくことですよね?

悟りすら単なる概念ですよね?

仏教
有り難し 83
回答 6

質問投稿日: 2016年9月30日 16:42

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

幻という言葉におちています

あんなもんまぼろしだ。
幻に過ぎない。
実態がないからまぼろしだ。何でもかんでも幻だったら、見えもしない、聞こえもしない、香りも味もしない、感覚すらないはずでしょう。
仏教はマボロシ思想、マボロシ至上主義ではありません。
悟りは悟りでハッキリしたことです。
マボロシ頭脳や妄想ビジョンで物事を観れば、マボロシに等しいでしょう。
何をみてもも聞いてもボーっとしているようなもの。
悟りは明晰、明確、ハッキリ覚醒しています。
そこにその物以上のものをみないことです。
むしろそこに「それ以上のもの」を見るという事があれば、その「それ以上のもの」という方が幻なのです。
たとえばあなたは、悟りとはマボロシだ、と悟りに自己の想念による付随物を添加した。
それは、悟りというものに幻というラベルを張り付けただけ。
今だ、想念、思いで観ている世界です。
まず、目前のものを自分の想念というマボロシ無し、オプション無しで視る、聞く、知覚してみてください。
悟りも迷いもマボロシも越えた真実を目の当たりにするでしょう。

2年9ヶ月前
回答僧

大慈

「悟ったお坊さんへ」のお礼の返信として

仏教の最初の頃は有余涅槃・無余涅槃(うよねはん・むよねはん)という言葉も有ったのですよ。余りが有る悟り・余りが無い悟り。あまり良い言葉じゃありませんけどね。私は煩悩って不治の病のようなものだと思った方が良いと思っています。抹消すべきものではなく、上手く付き合っていくべきもの。病の中でも前向きに生きていくためにはどうすべきかを学ぶべきもの。

前回の回答の表現をどうすべきかかなり時間を割いて悩んだのですが、前回はあくまで皆様の固定観念を壊すのを優先して「お釈迦さまも煩悩と葛藤していた」ということだけを強調しました。でも実際は「葛藤したけど、そのつど智慧の詩を詠んでマーラを撃退している」のです。煩悩に負けてしまったことは一回もありません。そこはご安心下さい。つまり「煩悩は浮かぶけど、煩悩に流されることは無かった」くらいのニュアンスがより正しいです。この割愛したニュアンスが最後の段落の「どこを目指せば良いか分かる…見通しが(後略)」にかかってくるわけですね。ここで書けて嬉しいです。ありがとうございます。

そして本当はタイトルの部分をもっと書き込まないといけなかったのですが、悟り心と非悟り心のバイオリズムをイメージして下さい。心電図の波波みたいなやつ。この悟りバイオリズムが普通の人はだいたいマイナス方向(非悟り心)で、時々キッカケがあると知らず知らずのうち一時的にプラス(悟り心)になるイメージ。それに対し悟った人はマイナスになってもすぐプラスに戻り、プラスの継続時間も長い。そしてああいう心の状態が良いと分かっているから、キッカケが無くても習慣として悟り心の時間を作れる感じです。それが「悟った人は悟りやすくなる」という意味です。

そうなってくると、人によって何倍速かに差がありますよね。だから「ブッダたちの中でも最も優れたお方」という呼び方が自然と生まれたのでしょう。悟りやブッダは0か100かでは無いのです。

悟りは逃げ道?どうしてです?逃げ道なら悟った後のお釈迦さまは伝道の旅をせず、祇園精舎や竹林精舎に引きこもって出てこなかったでしょう。

分からなくなって良いんです。元々分かったつもりで分かっていなかったことが、本当に分かる方向に進み始めたということですから。それは頑張っている証拠です。そこで投げ出しちゃダメよ。

2年9ヶ月前
回答僧

因速寺

釋精徹

悟りとはなにかは、言葉では表現しつくせません

「このうえない悟り」とは、人間の思考、感情、言語を超えています。
人間の感覚知覚、思考、感情は、真実のごく一部しか、取り扱うことができません。

だから、「こういう姿は、悟りとは遠い」という、否定表現でしか、悟りを言葉であらわすことはできないのです。

>すべて幻だった!ときづくことですよね?

今、自分が現に存在し、なにかを感じ、何かを考えているという事実ははっきりとあります。
「すべて幻」とは思いません。

>悟りすら単なる概念ですよね?

悟りの世界そのものは言語では完全に表現できません。
しかし、例えば、自分の都合で、人を選別し、都合の悪いものは嫌い、見捨てていく生き方は、悟りから遠い生き方である。
このように、「これは悟りではない」という表現ならば可能です。

2年9ヶ月前

悟りは覚りとも書きます

悟りは覚りとも書きます。
気づくことです。
何に?
それは、諸行無常と諸法無我です。

諸行無常とは、すべてのものは一定ではなく移り変わるということ。
あなたも諸行無常です、あなたはこれからも変わっていけるという事も含まれます。

諸法無我とは、すべてのものは、その周りのおかげで存在しているということ。
あなたも周りの人たちによって存在し、周りの人たちはあなたによって存在しているのです。
これらの事を理屈で知るだけでなく、心の底から感じられる事を覚るというのです。(これは私個人の解釈です。他の解釈もあります。)

そういう意味ではこの世の全ては幻ではありますが、今の瞬間瞬間は確かに存在し決して幻では無いのです。

2年9ヶ月前

悟りも「空にして縁起なる」幻の如きようなもの

コアラ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね?」・・

仏教では、確かに一切の全てのモノ・コトというものは、幻の「如き」ありようだと説明されます。

それは、あたかも、幻、夢、陽炎、こだま、逃げ水、蜃気楼、ガンダルヴァ城のようなものであるというような例えの表現で示されています。

しかし、あくまでも「如き」、「ようなもの」であることに気を付けないといけません。

何も無いわけではなく、確かにモノ・コトは「縁起」(因縁、依存関係など)において、あり得ています。

無いとして否定されるべきものは、「実体」(他に依存せずに独立自存にて、永久永遠に変わらずに存在し続けているような自性・自相)というものとなります。この実体が無いということを、仏教では「空」と申します。

ですから、「全ては幻だ」と言って、赤信号であるにもかかわらず、信号も車も「幻である」として、交差点に突っ込んでしまっていけば、当然に事故に遭い、怪我してしまう、最悪、死んでしまうことになります・・

悟りの一部分としては、智慧としての上記の「空と縁起」の理解をしっかりと修習していくことが大切なことになります。

「悟りすら単なる概念ですよね?」・・

概念であって概念でない・・むしろ、概念を超えた概念とでも言いますでしょうか・・また、「戯論寂滅」とか「言語道断」とか、概念を超えたところに「ある」ものだとも勘違いもされがちですが、悟りというものも、実は「空(実体としては無く)であり、縁起(因縁・依存関係など)により成り立っているもの」であります。

ですから、しかるべくに悟るための因縁(原因と条件、簡単には、原因としての菩提心と条件としての智慧と福徳の資糧の集積)を調えることができていけば、やがては、悟りへと至れることになるということでございます。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

2年9ヶ月前

悟りは

拝読させて頂きました。
悟りとはありのまま受け入れることです。

以上です。

2年9ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

ご回答いただきまして
恐縮です。ありがとうございます。

仏教や悟りに中途半端な知識しかなく
勘違いばかりで
ご回答くださり
ありがとうございます。

本は難しくて皆様の柔らかい言葉で
そういうことだったのか!と思っています。
すごく勉強になります。恐縮です

佐藤様
一番に回答くださりありがとうございます。

丹下様。
ご回答くださりありがとうございます。
前回教えてくださったフェースブックみさせていただいてます。すごく刺激的な投稿でした!教えてくださってありがとうございます。

聖章様
ご回答ありがとうございます。
悟りは 覚りとも書くのですね

一向寺様
ご回答ありがとうございます。
わかりやすかったです。
ありのままというのは
ラベルをつけないということですよね?
そのままを見つめる。自分の想念や添加物を付け加えないってことですね。
かなり修行が必要そうです。
ありがとうございました。

大慈様
ご回答ありがとうございます
お釈迦さまは煩悩にまけたことはないのですね。戦ったのではなくて、出てきた煩悩が過ぎ去るまでまで待ってたんですね。
悟りは逃げ道と書いたのは、
本の受け売りでわたしの勝手の解釈です。お許しください

川口様
ご回答ありがとうございます。
そうですね。
幻だ!とおもって
赤信号に突っ込んだら死んでしまいますよね。
あほでした!
ちゃんと地に足をついた悟りを身に付けたいです。すごく難しいですね、
また教えてください。
ありがとうございます

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