生きているのがつらいです。
自分の価値が分かりません。
自分を大切に出来ません。
数年前から、毎日毎日、寝る前に「目が覚めたら死んですように」「明日こそ死ねますように」と祈るようになり、朝起きるたびに「まだ生きてる」と絶望していました。
それでも、やりたいこと目指しているものがあったので、これではダメと鼓舞し未来をイメージするようにしました。
しかし、お前にはそれは許されないと戒めのように、プラスのイメージを持つたびに、大なり小なり突き落とされ続けてきました。
そのうち30歳までに死にたいと思うようになり、29歳のときに癌が見つかりました。
Ⅱb期の子宮体癌です。
抗がん剤と手術で根治する、と言われ絶望しました。
まだ、死ぬことが許されないほど苦しみ足りないのですか?
両親や友人に望まれ、治療を受けることにしました。
二月から抗がん剤投与が始まり、来月末に摘出手術を受けます。
周りの人達に心配をかけまいと前向きな発言もしますし、そのときは自発的に元気になったらやりたいことがイメージされます。
それでも、浮上すれば落とされの繰り返しです。
これ以上大切な人達に心配も迷惑もかけたくないから愚痴も言えないです。
けれど、毎日死にたいと思いながら生きるための行為を繰り返すのは辛いです。
やはり、一度死を渇望した私には心から笑って明るく生きる資格はないから苦しんで苦しみ抜け、ということなのですよね。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
突き落とし続けているものは一体何でしょうか
ユウさん
毎日毎日自分の死を祈って
毎朝起きたときに
生きている自分に絶望するなんて
本当に辛いと思います。
あなたの生きる力を奪い
自分の価値を分からなくさせてしまったものは
一体何でしょうか
“しかし、お前にはそれは許されないと戒めのように、プラスのイメージを持つたびに、大なり小なり突き落とされ続けてきました。”
ユウさんを突き落とし続けているものは一体何でしょうか
あなたは何かによって
自分の価値を分からなくさせられ
自分を大切に出来なくなっているのだと思います。
まずその何かを明らかにすることです。
その原因と向き合わず
無理矢理自分を鼓舞しては
苦しみを深くしてしまうと思います。
また
“これ以上大切な人達に心配も迷惑もかけたくないから愚痴も言えないです。”
ということですが
自分の苦しみを人に伝えて、人にちゃんと頼ることです。
迷惑をかけないのではなく
心配してくれて有り難うと感謝すること
弱さを隠して強がることは弱さです。
弱さを自覚し表現することが強さだと思います。
人は生まれながらにして尊いのです。
そして
ユウさんは両親や友人から生きることを望まれています。
また
死にたいという思いは
いのちが生きたいと悲鳴をあげているのだと思います。
是非自分の内面の声を聞いてみて下さい。
やがて死するべきものの、今命あるはありがたし
亀山純史と申します。このhasunohaへの投稿、ありがとうございました。このサイトへ投稿しようと思い、実際にこのように投稿したユウさんは、実は死にたくはないのです。本当に死にたいと思っている人は、このサイトに投稿はしてきません。なぜなら、このサイトは決して人の死を勧めるサイトではないからです。このサイトは生きる力を与えるサイトです。
さて、ユウさんは自分の価値がわからない、自分を大切にできないとのことですが、一体、人の価値はどこに見出せばよいのでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんにも、寝たきりになってしまったご老人にも、そして障がいを持って生まれた人にも、みんなに価値はあるのです。仏教では、人は人として生まれてきたこと自体に価値あるとみています。原始仏教の経典の一つである『法句経』の第182番目には「 人として生(しょう)を受くるは難く、やがて死するべきものの、今命あるはありがたし」と説かれています。毎朝、目をさまし、「あー、今日も目を覚ますことができた。」ということ自体が、有り難い価値あることなのです。一方、仏教では私たちの人生は「苦」であると説きます。つまり、人として生まれたことは価値あることでありながら、その人生は「苦」であるというのです。これは、「仏様と出会うことができるいのち(人として生まれたこと)を頂いた私たちは、仏様に会う道を歩ませていただき、やがては仏様に出会いましょう。」ということです。
私の回答が、ユウさんに少しでもご参考になればと思います。
まずは治療に専念して下さい。
ユウ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「一度死を渇望した私には心から笑って明るく生きる資格はない」・・そんなことはありません。
「死にたい」と思うのは、何もユウ様に限らず、私たちも生きていく中において耐えられない程の悩みや苦しみに直面した時、そう思うことが少なからずあるのではないかと存じます。拙生ももちろんそう思ったことがございました。
それでも何とか私たちは色々と助けられて、支えられて、今それぞれ現に生きることができております。
そうです。まさに生きているということは、色々なモノ・コトに支えられて、助けられているということでもあるのでございます。
誠に脆い存在である私たち、命を絶とうとするならば、いくらでも方法があり、あっという間に絶つことができてしまいます・・
一方で生きていくというのは、本当に色々な助け、支えがないと難しいもので、互いに助け合い、支え合い、補い合い、分かち合っていかないと、とても保たない存在なのであります。
そして、それは、あなたも、誰かの支えになり、助けにもなれるということでもあります。ユウ様もご病気を治されて元気になられてからで全然構いませんので、何らかのできることで困っている者や苦しんでいる者の支え、助けになって頂けましたら有り難く尊いこととなります。これまで、つらく、苦しい思いを存分なされた分、きっと、色々な方の悩み苦しみも自分のことのようにご理解なさられることができ、何とかしてあげたい、少しでも癒してあげたいと思って頂けましたら、それが仏教においても滋養すべき大切な慈悲の心というものになります。
ユウ様にも当然に笑って明るく生きる資格はございます。資格というよりも、それもユウ様ご自身のお心次第でございます。後ろ向きなことばかり考えていては何も進展しません。簡単に諦めないで、少しずつできることから、あまり気負わず、焦らず、無理せずに取り組んで頂けましたらと存じております。
もちろん、やがて誰もが最後には死を迎えますが、どうか最後の最後まで生きて生き抜いてほしいと存じます。結論は最後の楽しみに取っておきましょう。
とにかくまずは治療に専念されて下さい。ご病気の完治を心から祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
生きたいというエネルギーで生まれてきた
私は、輪廻転生や前世からの業を前提に考えるのが好きです。
それで言うと、あなた自身が前世で「生きたい」と強く欲して、「どんなに苦しくてももっと生きたい」とか「苦しんでもいいから人間になりたい」とか、そういうエネルギーを持っていたのではないでしょうか。
ですから、その思いが叶って、その身体、その場所に生きているのです。
私がこのような考え方が好きな理由は、自分自身の業(カルマ)の報いだと思ったほうが、他人のせいにして八つ当たりをしなくてよいからです。
あなたは、自分に幸せになる資格がないというような考えのようなので、不幸を他人のせいにしないという点で素晴らしいと思います。
生きる価値については、あなたは両親や友人に望まれて治療しているとのことですから、両親や知人にとってはあなたの命には価値があるのでしょう。
ところで、仏教の修行はベッドでだってできます。趣味として、人生の友として、仏教と親しまれてはどうでしょうか。
ちょっとした空き時間も退屈にはなりません。
質問者からのお礼
皆さま、回答いただきありがとうございました。
お礼が遅くなり申し訳ありません。
身体はまだ元通りとは言えませんが、何とかやっています。
たくさんの人のお役に立てるよう邁進してまいります。
ありがとうございました。