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仏教徒に対する疑問パート4

回答数回答 3
有り難し有り難し 37

それではさっそく質問です
この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか?
無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果
そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら
因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね
そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も
最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り
業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた
これも因を無視した果の法則じゃないですか?

ホントに最初の最初の状態
そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり
その無明は業を作り続けて
勝手に自分も業を作ったことにされるなら
悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか
無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います
無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として
無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった
この世の法として襲ってくるからですよ
まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います
それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか?

毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた
お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか?
人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか?
なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて
その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか?
もしも何の根拠もないなら
そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

はい、お蕎麦、お待たせしましたー。

この蕎麦はどこ産で誰が茹でた蕎麦か?
机上の空論と実証の修行とは別物です。ゆでたてのソバを目の前にしてソバに対する思いを深めているようなものです。のびますわ、麺。
毒矢とは、その思考を手段とした真理の探求の姿勢をこそ毒矢という。
何故なら思考のペダルをこぎ続けていても、事実や実相の側にシフトチェンジしない。
実際にあなたの疑問や迷いが晴れない。
蕎麦を今味わうのにレシピや理屈は不要。
無明が最初にあるのではない。
物事を「観」た時に自分の想念を織り交ぜるクセがあなたにある。
それが無明の根本です。想念がモノの真相を正しく見えなくさせているのが分かりますか。
たとえば、あなたがここで持って来られるお話は、仏教学や仏教思想と言われる類のものでも、ブッダや仏祖が説いた悟り果汁100%のナマの仏教ではなくレシピ、楽譜のような仏教学理論の為の仏教であるように見受けられます。私も昔散々つかまされ迷いました。
そういうものは学問理解の為の仏教であってく、正直な話、理論ばかりで生きた救いにならない。
いつまでも学解・無明状態にとどまらせてしまうものもあります。
人はそんな小難しい救いなど求めておらんのですよ?
どっちが原因でどっちが結果じゃ、因を無視した果の法則じゃないか、とあなたが思われるのも、頭の中で眺めている思考ビジョンです。悟りは事実ビジョン。
今日この時、この瞬間は「真実の今」。過去は記憶。
ごんぎつねみたく「ちょっ、あんなことしなけりゃよかった」と過去を振り返っても、振り返りをしている時は現在。しかも、その過去の因はもう変えられない。
たから、修行は「今」するべきであり、これからを変えるもの。
ちゃんとした仏教の教えというものは人を迷わせるものはない。
迷いが晴れないのは仏教によって晴れないのではない。
学ぶ者が仏教学・理論を頭の中でこねくり回して矛盾を起こし、こうだ、ああだと推測の域を出ないから決着がつかない。仏教学であっても迷いが相続してしまうのです。

「無明は~悟りにも襲ってくると思います 」
↑ とあなたが「思う」のでしょう。あなたがそう思うだけ。我見という。それがまさに無明のなせる想念です。自身の無明に眼を向けましょう。

「神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います 」
↑悟りと煩悩は同居したら悟りとは言えない。
奇跡→悟りの自由さを象徴した話。

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有り難し
おきもち

答えを求める御自身の心と向き合って下さいませ…

 質問が多く、内容も難しすぎて私にはとても回答できません。ですので、普段なら逃げてしまうところですが、勇気を出して「回答」してみようと思いました。
 あなたは、御自身の問いに対して仏教的な回答があり、それを理解、納得出来れば「苦しみが無くなり、楽に生きられる」「素晴らしい人間になれる」ような思いを持っておられませんか。
 ですが、御自身の理解とは、煩悩を持った身の上での理解です…それがこの身の限界です。仏という真実を理解する、この手に入れるということは、生きたまま、煩悩を持ったままでは不可能であるというのが浄土真宗の立場です。
 自分で「理解」した教えを身に付け、それを武器にして他者や社会に立ち向かう、我の思いを貫く…それはまさに仏教を戦闘ロボット化し、自身がそれに乗り込み、一体化することで、周囲に自分の存在を認めさせる行為です。宗教の方向性とは違うように思います。
 仏教を理解してやろう、理解出来なきゃ許さない…そのような思いこそは執着であり、煩悩です。あなたを、また同じく私を苦しめている心です。
 苦の根本は無明です…無明とは真実に暗いことです。じゃあ真実に明るくなれば良い…理屈はそうでも、煩悩を円かに備え、真実など到底この身で理解する能力もない私には、とてもそんなこと出来ないと見抜かれたお方が親鸞聖人であると頂いています。
 どうか、御自身の執着の心を、御自身でしかと御覧になってください。仏様のおはたらきによりて、それは可能なことです。
 そこに御自身の求めるすくいが明かされます。
 話が随分横道に逸れてしまい、回答になって無くてすみませんでした…。

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有り難し
おきもち

壊れたものは元にはもどらない

壊れたシャボン玉を再生することはできません。
お釈迦様は、無明というシャボン玉を壊されたのです。
シャボン玉がなぜできたのか?
それは遠い昔のことすぎて、私達にはわかりません。
しかし、無明のシャボン玉は、割れにくく、シャボン玉に閉じ込められた生きものは、シャボン玉の中で苦しんでいます。
シャボン玉は、永遠不滅ではありません。
お釈迦様は、シャボン玉を壊す方法を発見したのです。
シャボン玉から外に出た空気は、他の空気と混ざりあって、もう、もとのシャボン玉の中身に戻すことはできません。
お釈迦様は80歳で完全な涅槃、平安なる滅びに入られました。
お釈迦様のシャボン玉は破壊され、シャボン玉の中身は散らばりました。
たとえ新しいシャボン玉が何百と襲ってきても、二度とお釈迦様のシャボン玉を再生することはできません。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

お坊様 仏教やお坊様が嫌いでこんな質問してるわけじゃないですからね
純粋な質問ですよ ハスノハのキャチャーミーットに相応しいボールを投げてるだけです
ハスノハで仏教に疑問を持って質問したらダメではないですよね
もしかしたら私の質問は煩わしいと思いますがそれも対機説法の修行ですよ
色々話聞けて楽しかったです 質問に答えてくれたお坊様に感謝します

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ