法華経が好きなのにお念仏
私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。
私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。
ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。
ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。
大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。
しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。
更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。
長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね?
法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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天台の教え
清香さん、こんにちは。
マルコちゃんが好きなのですね。明日はマルコちゃんの講演会で、お会いしますので、清香さんのことを伝えておきますね。
仏教教理にはいろいろな思想がありますが、私の法華経の理解では、念仏も真言も題目もすべて同じ境地であると理解しています。
たとえば日蓮系だと念仏を批判しますが、たとえ素晴らしいお題目を唱えても精進を怠っていれば空題目で功徳はなく、地獄に落ちると非難する念仏の僧侶でも人助けの実践をしている人の念仏はお題目に勝ると思つています。
あるいは一部の仏教教団では自分の教団が正しいといってキリスト教は邪教だと批判する組織がありますが、その批判する同じ仏教の組織よりも、邪教だと批判されるキリスト教のマザーテレサの方がよほど精進した立派な高僧よりも仏に近いと思って尊敬しています。
ようはどんな素晴らしい教えでも実践しなければ意味がなく、たとえ邪教も真面目に実践し社会に貢献している人の方が素晴らしいということです。大切なのは信仰を受けて実践している本人の姿こそが一番の教えの素晴らしさを伝えるものだと思っています。だから私は天台宗が勝り、他宗が劣つているとは思っておりません。
やはり「法は人によって尊し」なのです。合掌
「阿弥陀」という真理に南無する
「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と感じるならばそれでよいのではないでしょうか。
「阿弥陀」とは無量の光と無量の寿の意ですがつまり、
「無量の光」=照らさないところはない=「どこでも」
「無量の寿」=過去現在未来にわたり尽きることのないいのち=「いつでも」
いつでも、どこでもの「真理」です。真理が真理であるならば「いつでも」「どこでも」の性格を必ず帯びるのではないでしょうか。
釈尊が覚り(仏智)を個人の中に留めず、法を説かれたという梵天勧請から初転法輪のエピソードの意味するところは「全ての人」(=「誰でも」)を救いたいとの一心でしょう。
この「誰でも」を実現するためには当然にして「いつでも」「どこでも」の性格を帯びなければ真理になりません。漏れる人がいてはいけないのです。
ですから、浄土三部経以外にも阿弥陀仏が出てくる経典は様々にありますが、たとえ「阿弥陀」の文言がなくとも、「いつでも」「どこでも」「誰でも」の真理があるならばそこに「阿弥陀」を感じるのは間違いではないでしょう。
「阿弥陀」が「阿弥陀」なのではなく、「阿弥陀」が「真理」なのでもなく、「真理」が「阿弥陀」です。
「阿弥陀」以外に真理もあるでしょう。それが「南無妙法蓮華経」でも「蓮華蔵世界」でもなんでも真理であるならば、「いつでも」「どこでも」「誰でも」のおはたらきがあるはずです。
「阿弥陀」に縁を感じる人はその「真理」を「阿弥陀と讃えたい」「阿弥陀と称したい」人の集まりです。
「真理」に南無(帰依)し「南無阿弥陀仏」と称しているのです。
釈尊の智慧が「阿弥陀」という慈悲として具体的にはたらきでているのです。
ですから清香さんお一人が救われるならそれが真理です。清香さんが救われるのならみんな救われるのですから。
「私は阿弥陀様にご縁がある」と突き進んで「やっぱちがった(笑)」というご縁もあるかもしれません…でもそれが真理ならばそれをも「阿弥陀」と讃える人、讃えてきた人がいるのです。
南無阿弥陀仏
>法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し
はい、賛成です。^ ^
>「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ない
そう思います。
法華経の如来寿量品で説く「久遠実成の仏」は阿弥陀様のことで、これは阿弥陀仏と釈迦仏が本迹不二であることを示しています。
法華経と大無量寿経
清香様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
以前の他の方からのご質問の拙回答と被ってしまうものとなりますが、実はこの私たちの今いる世界は途方もない広い三千大千世界(十万億土)のほんの一つであり、この三千大千世界を一つの仏国土として、この仏国土に2600年ほど前に現れられたのが、偉大なる世尊仏陀、お釈迦様(最勝応身)でございます。
現在、この仏国土では応身の仏(如来)様は不在となっておりますが、56億7千万年後には、兜率天でご修行されておられる弥勒菩薩様が如来となって応身として現れられるとされています。
そして、この仏国土の他にも、同じように三千大千世界(十万億土)を持つ仏国土があり、例えば、私たちの仏国土の西側には阿弥陀如来様の西方極楽世界が、東側には、東方浄瑠璃世界、あるいは、妙喜世界があり、それぞれ薬師如来様、阿しゅく如来様がいらっしゃり、また、密厳浄土という仏国土においては、大日如来様が、それぞれに法をお説きになられて各仏国土にて有り難く尊くにも衆生済度にお取り組みなされておいででございます。
悟りを開かれた仏様、如来は、皆同一にお偉いお方たちとなります。
各如来様方は、もちろん、違う如来様方となります。
真如・真理としての法身については、如来として同一であっても、教化するための報身や応身は、悟りへ至ったための誓願や修行内容などの因縁(原因や条件)により異なるものになっております。
但し、互いに何でも知り尽くしている一切知者同士であり、お釈迦様も阿弥陀如来様も互いのことは自分のことのように把捉できるのであります。
ですから、仏典でも互いの事を述べあったりということも、当然にあり得ているのであります。
話を戻しまして、法華経と大無量寿経における内容が矛盾していないというのも、一切知者同士におけることでの話であるから当然と言えば当然なことになります。
但し、問題は、悟り得た側によっての顕現している世界についての様々な表現を、我々凡夫の側からでは字義通りに正しくに解釈できないこともあるというところでございます。
仏様のお言葉を解釈する際には、了義(最高の真理)と未了義(最高の真理へと至るための方便)の二種により説かれているということについての前提理解も必要となりますので、その点は注意が必要となります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
染川さん
団姫さんとお知り合いでしたか。ツイッターやメール相談で随分お世話になりましたので、清香よりも「カテリーナ」と言っていただくとお分かりいただけると思います。…忘れられてる可能性もありますが(笑)
私も、どの宗教がいいとか悪いとかないと思っています。ただ、不思議と法華経→念仏にたどり着いたので、これは阿弥陀さまにご縁があったということかな?と考えました。
吉武さん
ありがとうございました。南無阿弥陀仏
遠藤さん
解釈に同意していただけて嬉しいです。ありがとうございました。
川口さん
ありがとうございました。