hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

【悟り】には孤独必須でしょうか

回答数回答 4
有り難し有り難し 71

タイトル通りです。
【悟り】を極めるには
孤独必須ですか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己に向き合うには他者、自己の中の「人」を介さない。

良寛さんは修行時代、隣の単の人がどこの誰であるかも知らなかったそうです。
本当は修行の態度としてはそういう姿勢が望ましいのでしょう。
ですから、うちの坐禅会はこちらからあまり名前も聞きません。
会の人同士でのベタベタもあまり、お進めしません。
参禅の趣旨がずれるからです。
お寺の会には集いを目的としたものも確かにありますが、純粋に悟りのありようを見極める参禅会では、それは本当は要りません。人を意識するようになってしまうからです。
そういう意味では修行の際に一人でいることは大切です。
自己のありようを見つめるのに人がいたら意識してしまって邪魔です。
正師、導きの師だけは必要だと思います。
ですが、坐禅修行の際にはそれをするのは当の本人ですから、そこに他者を介しません。
「孤独」といっても、寂しいような孤独ではありません。
本当に一人になれる人は、孤独感がありません。
想念で生きない、事実に安住しているから、寂しさがありません。
「世間は人と関わって生きているのに、よれに比べて自分は一人だ」などと想念上で自分の状況を良くないものとみなすことで孤独感が生ずるのでしょう。
今もお一人で居られたはずです。
沈黙にも種類があります。
悟りの静寂は、寂しいものではなくやすらかで、そこにありながらすべてのものと関わっている状態です。本当に一人を徹底すると、自分が思っていたような孤独感すら生じなくなるのです。何故ならこの自分自身に本当に親しめるからです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

中道

お釈迦さまは家族から離れて修業しました。山奥に行って、誰にも見つかってはいけない苦行もしました。しかし、最後には苦行は自分を痛めつけるだけで意味なかったと結論づけました。で、悟りを開いた後はどうなさったか?息子も妻も養母も従兄弟もみーんな弟子にして出家させました。1人残されたお父さんが泣いて批難して、お釈迦さまが反省したほど連れて出てしまいました。ここ、大切です。

お釈迦さまの悟りはご縁です。ご縁を断ち切るのが悟りではなく、ご縁の中でいかに生きるかが悟りです。
実際、お釈迦さまはお寺は「町から離れすぎず近すぎないところ、もしくは町中に作りなさい」とおっしゃっています。

あるいは深山幽谷のイメージがある道元禅師。京都で比叡山系勢力から弾圧を受け、能登の山奥にこもりました。しかし正法眼蔵随聞記という言行録には、「ホントは深山幽谷にこだわるようなのは、うわべの格好よさに執着しているだけ(有相我著)なんだけど、末法の世だから仕方ないと思うしかないね…」とコメントされています。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

出家者はサンガで集団生活

お釈迦様には弟子がたくさんおられ、集団生活で修行されていました。
そして、たくさんのお弟子さん達が悟りました。
ですから、生活については、孤独じゃなくても悟れるでしょう。
しかしもちろん、修行自体は個人的な経験でしょうから、そういう意味では、悟る瞬間は独りではないでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

世俗的交わりと出世間的交わり

ゆきの様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もしか致しますと、スッタニパータ「犀の角」の章における「犀の角のごとくただ独り歩め」のことについてのご質問となりますでしょうかね。。

もしも、そうでしたら、それは、世俗的な交わりに対しての注意としてであり、出世間的な交わりとしてではないとお考えを頂けましたらと存じます。

共に仏道を歩む善友、法友など同志、あるいは、導師、先達たちの存在は、当然に有り難く尊い存在でございます。

出世間的な交わりまでを否定してしまっては、独善的・自己満足的なところに堕落してしまいかねませんので、そこは逆に注意が必要になるかと存じます。

共に悟りへと向けて頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ