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自己に向き合うには他者、自己の中の「人」を介さない。
良寛さんは修行時代、隣の単の人がどこの誰であるかも知らなかったそうです。
本当は修行の態度としてはそういう姿勢が望ましいのでしょう。
ですから、うちの坐禅会はこちらからあまり名前も聞きません。
会の人同士でのベタベタもあまり、お進めしません。
参禅の趣旨がずれるからです。
お寺の会には集いを目的としたものも確かにありますが、純粋に悟りのありようを見極める参禅会では、それは本当は要りません。人を意識するようになってしまうからです。
そういう意味では修行の際に一人でいることは大切です。
自己のありようを見つめるのに人がいたら意識してしまって邪魔です。
正師、導きの師だけは必要だと思います。
ですが、坐禅修行の際にはそれをするのは当の本人ですから、そこに他者を介しません。
「孤独」といっても、寂しいような孤独ではありません。
本当に一人になれる人は、孤独感がありません。
想念で生きない、事実に安住しているから、寂しさがありません。
「世間は人と関わって生きているのに、よれに比べて自分は一人だ」などと想念上で自分の状況を良くないものとみなすことで孤独感が生ずるのでしょう。
今もお一人で居られたはずです。
沈黙にも種類があります。
悟りの静寂は、寂しいものではなくやすらかで、そこにありながらすべてのものと関わっている状態です。本当に一人を徹底すると、自分が思っていたような孤独感すら生じなくなるのです。何故ならこの自分自身に本当に親しめるからです。
中道
お釈迦さまは家族から離れて修業しました。山奥に行って、誰にも見つかってはいけない苦行もしました。しかし、最後には苦行は自分を痛めつけるだけで意味なかったと結論づけました。で、悟りを開いた後はどうなさったか?息子も妻も養母も従兄弟もみーんな弟子にして出家させました。1人残されたお父さんが泣いて批難して、お釈迦さまが反省したほど連れて出てしまいました。ここ、大切です。
お釈迦さまの悟りはご縁です。ご縁を断ち切るのが悟りではなく、ご縁の中でいかに生きるかが悟りです。
実際、お釈迦さまはお寺は「町から離れすぎず近すぎないところ、もしくは町中に作りなさい」とおっしゃっています。
あるいは深山幽谷のイメージがある道元禅師。京都で比叡山系勢力から弾圧を受け、能登の山奥にこもりました。しかし正法眼蔵随聞記という言行録には、「ホントは深山幽谷にこだわるようなのは、うわべの格好よさに執着しているだけ(有相我著)なんだけど、末法の世だから仕方ないと思うしかないね…」とコメントされています。
出家者はサンガで集団生活
お釈迦様には弟子がたくさんおられ、集団生活で修行されていました。
そして、たくさんのお弟子さん達が悟りました。
ですから、生活については、孤独じゃなくても悟れるでしょう。
しかしもちろん、修行自体は個人的な経験でしょうから、そういう意味では、悟る瞬間は独りではないでしょうか。
世俗的交わりと出世間的交わり
ゆきの様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
もしか致しますと、スッタニパータ「犀の角」の章における「犀の角のごとくただ独り歩め」のことについてのご質問となりますでしょうかね。。
もしも、そうでしたら、それは、世俗的な交わりに対しての注意としてであり、出世間的な交わりとしてではないとお考えを頂けましたらと存じます。
共に仏道を歩む善友、法友など同志、あるいは、導師、先達たちの存在は、当然に有り難く尊い存在でございます。
出世間的な交わりまでを否定してしまっては、独善的・自己満足的なところに堕落してしまいかねませんので、そこは逆に注意が必要になるかと存じます。
共に悟りへと向けて頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌