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【悟り】には孤独必須でしょうか

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タイトル通りです。
【悟り】を極めるには
孤独必須ですか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己に向き合うには他者、自己の中の「人」を介さない。

良寛さんは修行時代、隣の単の人がどこの誰であるかも知らなかったそうです。
本当は修行の態度としてはそういう姿勢が望ましいのでしょう。
ですから、うちの坐禅会はこちらからあまり名前も聞きません。
会の人同士でのベタベタもあまり、お進めしません。
参禅の趣旨がずれるからです。
お寺の会には集いを目的としたものも確かにありますが、純粋に悟りのありようを見極める参禅会では、それは本当は要りません。人を意識するようになってしまうからです。
そういう意味では修行の際に一人でいることは大切です。
自己のありようを見つめるのに人がいたら意識してしまって邪魔です。
正師、導きの師だけは必要だと思います。
ですが、坐禅修行の際にはそれをするのは当の本人ですから、そこに他者を介しません。
「孤独」といっても、寂しいような孤独ではありません。
本当に一人になれる人は、孤独感がありません。
想念で生きない、事実に安住しているから、寂しさがありません。
「世間は人と関わって生きているのに、よれに比べて自分は一人だ」などと想念上で自分の状況を良くないものとみなすことで孤独感が生ずるのでしょう。
今もお一人で居られたはずです。
沈黙にも種類があります。
悟りの静寂は、寂しいものではなくやすらかで、そこにありながらすべてのものと関わっている状態です。本当に一人を徹底すると、自分が思っていたような孤独感すら生じなくなるのです。何故ならこの自分自身に本当に親しめるからです。

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中道

お釈迦さまは家族から離れて修業しました。山奥に行って、誰にも見つかってはいけない苦行もしました。しかし、最後には苦行は自分を痛めつけるだけで意味なかったと結論づけました。で、悟りを開いた後はどうなさったか?息子も妻も養母も従兄弟もみーんな弟子にして出家させました。1人残されたお父さんが泣いて批難して、お釈迦さまが反省したほど連れて出てしまいました。ここ、大切です。

お釈迦さまの悟りはご縁です。ご縁を断ち切るのが悟りではなく、ご縁の中でいかに生きるかが悟りです。
実際、お釈迦さまはお寺は「町から離れすぎず近すぎないところ、もしくは町中に作りなさい」とおっしゃっています。

あるいは深山幽谷のイメージがある道元禅師。京都で比叡山系勢力から弾圧を受け、能登の山奥にこもりました。しかし正法眼蔵随聞記という言行録には、「ホントは深山幽谷にこだわるようなのは、うわべの格好よさに執着しているだけ(有相我著)なんだけど、末法の世だから仕方ないと思うしかないね…」とコメントされています。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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出家者はサンガで集団生活

お釈迦様には弟子がたくさんおられ、集団生活で修行されていました。
そして、たくさんのお弟子さん達が悟りました。
ですから、生活については、孤独じゃなくても悟れるでしょう。
しかしもちろん、修行自体は個人的な経験でしょうから、そういう意味では、悟る瞬間は独りではないでしょうか。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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世俗的交わりと出世間的交わり

ゆきの様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もしか致しますと、スッタニパータ「犀の角」の章における「犀の角のごとくただ独り歩め」のことについてのご質問となりますでしょうかね。。

もしも、そうでしたら、それは、世俗的な交わりに対しての注意としてであり、出世間的な交わりとしてではないとお考えを頂けましたらと存じます。

共に仏道を歩む善友、法友など同志、あるいは、導師、先達たちの存在は、当然に有り難く尊い存在でございます。

出世間的な交わりまでを否定してしまっては、独善的・自己満足的なところに堕落してしまいかねませんので、そこは逆に注意が必要になるかと存じます。

共に悟りへと向けて頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

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悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ