執着、煩悩、雑念
世界の裏側ではいつも悲惨な戦争が起きてます
もしもお坊様が目の前で愛する人が殺されてもそれは執着、煩悩、雑念と切り捨て
悟りを開く無の境地になれますか?
全ての煩悩の塊 100文字以内には収まらない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悟りは無感情という事ではない
こんにちは。お久しぶりです。
世界では戦争やテロで多くの方々が亡くなっています。とても残念な事です。また日本でも、びっくりするくらい多くの自死者がでています。まさに「自死戦争」ですね。私たちは戦争もテロも自死もなくなるよう活動精進していかなくてはならないと思っています。ここhasunohaの活動がそのひとつになればいいなと思っています。
さて私は、悟りとはあなたが考えているような「無の境地」だとは考えていません。悟りとは「真理の体得」です。
大切な方が亡くなれば、真理体得者でも悲しい気持ちになると思います。
一方で、その悲しみの感情と執着・煩悩・雑念は別物と思います。(真理体得者が冷酷・無感情になるというわけではありません)
なかなかそこまでいかないですけどね。
あなたにはいつも呼びかけていますが、あなたの本当の悩みは何でしょう?この質問により解決したでしょうか?
「なにが問題か」が大事
質問読ませていただきました。
もし私がテロなどで大切な人、親しい人を失ったら、怒り狂うでしょうし、許せないと思います。テロ集団を殺してやりたいと思うとおもいますし、怒りや悲しみがずっと頭から離れないでしょう。
…問題は「なにが問題か」だとおもいます。「愛する人」は絶対に失いたくなくて、「知らない人」はそこまで興味がなくて、「憎い人」は消えてほしい。そう思うのがあたりまえでそれ以外ない、そういう人間社会を私は生きています、というその「あたりまえ」が問題なのでは?
たしかにそういう半面は確実にあるのですが、本来は生命皆平等です。人間目線だけではなく、生命目線も同時に持ち合わせて生きていく必要があるとおもいます。
人間目線、私目線は常に何かを「所有」するというスタンスです。私の大切な物(人)を増やしていく。当然それを失いたくないという怖れ苦しみがついてきます。
生命目線、自然目線はそれはないのでは?全てが平等で、所有する、されるの関係は全くありません。すべてがそのままにあるだけです。
本来生命みな平等にありながら、私たち人間は自分たちの都合で好き勝手生きさせていただいてますという自覚があれば、それ相応の生き方になっていくと思いますし、執着(ほしい、失いたくないという思い)、煩悩(私目線のみからおこる思い)、ともいい関係を保てるのではないかと思います。
無の境地などないともいえますし、生命目線を忘れないことがそれにつながるのかもしれません。
テロは絶対に許せませんが。
怒れば怒るほど怒り癖がつくので、善い空想ではない。
怒りの煩悩(悲しみも含む)は、四段階ある悟りのうち、第三段階にならないと完全にはなくならないそうです。
私は第一段階にも達していない凡夫なので、怒りの煩悩はバリバリあります。
とはいえ、実際に起きていないことについては、わからないのです。
ただ、言えることは、怒りの煩悩は、怒れば怒るほど強くなる恐れがある、ということです。
なので、怒りの煩悩をなくしたいと願う仏教徒は、修行の一環として、できるだけ怒る回数と時間を減らした方が善いのです。
空想の中でも、怒る回数を減らした方が善いのです。
だから、怒りたくなるような空想は、必要ないならしない方が善いかもしれません。
復讐のために殺害したりする空想も、しない方が善いです。
空想の中であっても、
「怒れば怒るほど怒り癖がつく」
「殺せば殺すほど殺し癖がつく」
と思ってください。
これが、罪業(悪のカルマ)の法則だと考えて、悪い行いや感情は、空想上でもやらない方が善いと思ってください。
皆全て救われるための悟りを目指して
阿防羅刹夜叉様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
殺す者も殺される者も、好きな者、嫌いな者も含めて、どうか輪廻に迷い苦しんでいる全ての一切衆生が、煩悩・無明を対治して悟り・涅槃へと至れますようにとして、皆全てが救われるための悟り・涅槃を目指し、少しずつながらにでも一歩一歩、仏道をしっかりと歩んで参りたいものでございます。
三宝帰依・菩提心生起
すべての有情を救済しようという願いによって
仏陀・仏法・僧伽に
悟りの心髄に至るまで
私は帰依いたします
智慧と慈悲を持って精進し
すべての有情を利益するために
私は仏陀の御前に
完全なる菩提心を生起いたします
この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを滅することができますように
共に頑張って精進して参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
悲しみはあります
拝読させて頂きました。本当に戦争やテロが毎日起きている現実はつらいことです。悪の極地が戦争です。本当に愚かな行為であり罪です。
親しい人が罪もなく傷つけられて殺されたりしたらば、それは大きな悲しみを感じるでしょう。それはありのままの心の有り様です。例え悟りを得て仏となったとしても悲しみを感じることに変わりはないでしょう。
仏様は人が憎しみ争いあい罪を重ねることを悲しまれます。
ですからご縁のつながった方々の非業の死も悲しまれます。だからこそ仏様は全ての人々を救いたいと願いを立てて仏となられて人々をお救いくださるのです。
ですから成仏しても悲しみはあります。