誰かに必要とされたいというのは贅沢な願いでしょうか?
誰か一人でもいいので、自分を必要としてくれる人と出会いたいと願うのは贅沢な願いでしょうか。
もちろん必要とされるに値する人間になれるような努力は怠っていないつもりでした。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
認めるかどうかは相手が決める。
人の笑顔は何にも代えがたく心の安らぐものです。
お母さんが赤ちゃんをあやす姿を想像してみて下さい。
人は生まれてすぐに笑顔でいることの嬉しさを覚えます。
もの心がついてくるとお母さんや周りの笑顔が見たいがために戯けて見せたりします。
その頃から既に「周りの笑顔」=「必要とされている」という認識を持っているのです。
それが次第に成長して自我が出てくるにつれて、まわりの反応によって駆け引きを覚え、損得勘定をするようになってゆきます。
しかし、周りの状況が変わっても、人の感情の中から「必要とされる」ことへの喜びがなくなることはありません。
持っていて当然の感情ですし、その感情を持っているからこそ、自分の損得を越えて心や体を動かすことが出来るのです。
自分が必要とされたいと思うことは、72億の人間が誰一人例外なく持っている感情です。
しかし、大切なことは、それを決めるのは自分ではなく、相手だということです。
必要とされるようになるために頑張るというのは、少しズレがあるように思います。
相手には相手の感情があります。
必要としている部分も、自分が思い描くものとは大なり小なり違う部分があって当然なのです。
自分が認められたい部分が、周りにとって必要でなければ、誰も認めてはくれません。
こんなに意味のあることをしているのにどうして認められないのか?
そう思うかもしれませんが、それに意味があるかどうかも決めるのは自分ではなく相手なのです。
認めてもらいたい相手を最初から決めて臨むならば、その相手の望むものを的確に捉えていなければなりません。
そこには、認めてくれるならやる、認めてくれないならやらない、そんな幼稚な駆け引きは通用しません。
相手の必要としないものは最初から要らないのですから、そんなことをしていては、本来認められるはずのものであっても認められなくなってしまいます。
要は、自分の出来ることを精一杯やっていく中で、それを必要とする人が自分の中の必要とされる部分を選んでくれるということなのです。
何事にも精一杯取り組む人の姿は、周りに感銘を与えるものです。
認められるからやるではなく、損得勘定を抜きにして、目の前のことに全力で取り組んで下さい。
必ず誰かがあなたを見ていますよ。
至極当然な欲求だと思います
アメリカの社会心理学者G・H・ミードは、人間の自我意識は主体的で独自なる「I」と他人との相互関係によって形成される「Me」の双方に依ると唱えました。平たく言えば、自分という存在は、自分自身で「自分は〜〜だ」と自己評価している自分と、他人が「あの人は〜〜だ」と評価している、二人の自分によって成り立っていると言うことです。
この様に人間は社会的な生き物ですので、誰かに必要とされたい、Anybodyではなく誰かのSomebodyに成りたいと言う欲求が生じるのは至極当然でありますし、また自己評価と客観的な社会的評価には、当然ギャップが生じるので人は悩む訳です。
禅では主体的な「I」と客観的な「Me」、主客の合一を目指します。
その為に、目の前のこと、今ここ私に徹することを説いています。
当然に湧いてくるものです。
自分が必要とされたいと願うことは、当然に湧いてくるものです。
お釈迦さまは、この世に生きる苦しみをコントロールして、多くの人に安心(あんじん)をもたらすために、出家をされて、多くの人々に仏の教えを説いていかれました。
あなたが、必要とされたいと願うことは素晴らしいことです。相手のことを思いやる気持ちを持ち合わせることができれば、あなたにもお相手にも安心をもたらすことができます。
必要とされるよろこび
誰かに必要とされる喜びは、だれもが感じられることだと思います。しかし、それは「必要とされる」為に何かをするのではないと思います。必要とされるというのは、結果ではないでしょうか。
「必要とされる」ということは目指すことではないと思います。
スポーツ選手が人を感動させたいと思ってプレーいていたとしたら、そんなプレー感動しません。計算が働き、本来やるべきことがずれていることになります。全て結果として感動するだけです。
あなたは、いまは、しっかり学び(国語や算数などの話だけではない)、人間を作り上げる時期なのでしょう。
必要とされるかどうかは、後から付いてくるものだと考えます。
誰にでもある
自分を必要としてくれる人がいるだけで、プライドの支えになり勇気づけられますよね。
たとえばバイトや就職だって、採用されるということは、必要とされ、選ばれることです。
恋愛だって、お付き合いできるということは、たくさんの異性の中から選ばれることですから、勇気づけられます。
あなたを必要としている身近な人は家族ですが、家族が必要とするのはあたりまえなので、プライドを満たすには物足りないと感じるかもしれませんね。
プライドの煩悩(自分をすばらしいと思いたい、すばらしいと確認したい)は、誰にでもありますので、贅沢ではありません。