お寺の跡継ぎですが信心が無いのは問題でしょうか。
私はあるお寺の長男で、跡を継ぐ立場にありますが、ここ最近進路について真剣に考えていると、どうしても自分が跡を継いでいいのかという疑問を抱いています。それはタイトルにもあります通り、私に信心というものがほとんど無いからです。
家柄上、仏教・宗教とどう向き合うかということをよく考えるのですが、そのとき仏教はこれこれこういうものであると認識することはできても、それを信じることはできません。読経や修行も必要ないのではと考えてしまいます。そのような者が僧侶となってお寺を継ぐということは適当でしょうか。私は適当で無いと考えます。
私自身はお寺を継いでも構いません。職が決まっているというのも有り難いことだと考えています。しかし原理を大事に考えてしまうので、真面目に活動している僧侶の皆様を見ると、咎める心があるのです。
私はお寺を継ぐべきなのでしょうか。そして、もし継ぐにしても、信心が無いのは問題でしょうか。周りにこのことを相談できる人がおりませんのでこの場で質問させていただきます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私たちと共に悩みながらも、一緒にお念仏の道を歩みましょう。
しっかりと覚悟を決めて跡を継ぐ! ことができている人が、どれだけいるのかしらね〜。
みんな 不安があったり、こんな私が、大丈夫だろうかと悩むことだって、あるんじゃないかしら。
だから、仏法を聴いていくわけだし、自分に深く問うていくわけだし、ご本尊の仏様の願いや救いに導かれていくわけです。
そうやって、多くのお育てに出遇わさせていただく。
職業というより、生き方じゃないかしら。
あなたの、その真っ直ぐな気持ちを、ご両親に聞いていただいたらどうかしら?
ちゃんと、あなたの悩める気持ちを、受け止めてくださるはずですよ。こんなに真剣なんだもの。
私たちと共に、悩みながらも、一緒に お念仏の道を歩まさせていただきましょうよ(*´꒳`*)
わたしにも似たような経験があります。
93さん、そうですか。それはつらいと思います。似たようなつらさ、自分の不実さを抱えて悶々とする人はけっこういます。わたしもそうでした。
わたしは真宗ですが、わたしの場合は、10歳くらいから信心が気になりました。法話も蓮如さまのお手紙も「信心が大事だ」と言っている。じゃあ信心って何なのと思ったらよくわからない。自分がせいいっぱいに「信じる」のではなく「いただく」と表現されているのがまたよくわからない。
高校の時に「倫理」の授業で「回心」について聞きました。名だたる宗教者の多くはほぼ必ず心が「ぐるっ」と回転するような「回心」の経験を持つ。一般人にもある。ただし、劇的な回心と漸進的な回心とがある。劇的でなければならないわけではない。……
「わからない、わかりたい」と思ったままで宗門の学校をいっぱい卒業して、それでもわからない。でも、とあるきっかけをもらって、わかるようになりました。
しかし「わかる」と言うのもやっぱりちょっと違います。「わたしがわかる・わからないはまったく関係がなかった」ということが「わかった」だけです。信心の内容そのものがわかったわけではない。だから楽になれました。
どんな宗教もきっとそうだと思うのですが、「自分が信じる」のは何の屁のつっぱりにもなりません。確固たる誠実な真面目なずっと変わらない「わたし」が信じるなら、意味があるかもわかりませんが、あやふやで不誠実で不真面目で常に変化しているわたしが「信じる」ことには何の意味もない。
ある先生は、「信心がないことを隠して、あるようにふるまうのは問題だが、信心がわからない、求めている、と打ち明けながら進んで行くなら、いいのではないか。」的におっしゃってくださいました。また、別の先生は「求めていれば必ずわかる!とは言えないが、阿弥陀さまのことだ、心配はないんじゃないか(自分だってわかったから)」と。また別の方は「南無阿弥陀仏が信心の証拠で、それ以外はない」と。別の先生は「お聖教のどこに信心の求め方が書いてある?」と。
辛いでしょうが、求めてみてください。すべての妙好人はご苦労なさって求めて、求めて、やがて晴れた方々です。求めれば必ずわかる!とは言いません。でも、わかったら、いいですよね。
わたしが信心を求めていたというのは一応本にしてあります。興味があったらプロフィールをご覧ください。
信心なんて最初からある訳ないでしょ。
まず、僧侶になるなら信心ではなく、檀家さんに対し責任を感じる事です。
檀家さんは大切にしなければなりません。
次に、信心ではなく仏様に向かう真面目な心があればそれでいいのです。
マジメに仏様と向き合えば、なんとなく見えてきますよ。
自分の行先が.....
君の質問文を読んで感じたのですが・・・・
僧侶になる素質を認める事ができる人間は久方ぶりです。
まあ、行きたい進路があればそこへ没頭されてもいいですし、寺を継ぐならそれでもいいでしょう。
あなたが選択することですから。
もし僧侶になると決められた場合・・・・
クドイけど書きます。
まずは、檀家さんを大切に思うこと。
そして、今出来る事は、真面目に仏様と向き合うことです。
信心はあとからついてきます、それでいい。
ラーメン道と仏道
有難い回答が沢山入りましたので休憩がてらラーメンでも食べながら考えてみましょう。
なんだか気持ちが悪いんですよね。自分が美味いと思うラーメンを紹介するならいいんですが、食べたこともないラーメン屋を誰かが美味しい店と言っていたからと紹介するのって。
それだけならまだマシで、それでちゃっかり紹介料までもらうんですから実に気持ちが悪いのです。
「(私は食べたことないけど)あそこのラーメン屋は美味いらしいよ。じゃあ紹介料〇〇円ね、まいどあり!」ってなもんで。
早い話が自分が食べてみればいいんです。そしたら最低限自分が美味いと思うか、不味いと思うか感想があるという意味で、紹介するにあたっての最低限の義務は果たせる。
次のステップが自分が美味いと思うものを紹介したいというものです。
色々言う人がいますが、「それって美味しくないんでしょ?」というのは一回も食べたことのない人が言うセリフであって実際に食べたのなら「どこが不味いのか語れる」のです。
ちぢれ麺は無しでしょ?とか
鳥白湯はどうもなあ…とか
辛味噌ってどこも同じ味だよねとか
それぞれ感想を持つものです。それで「自分が美味いと思うもの」に出会えればそれはそれでよいのですが、なかなかコレという店・味には出会えません。
その時にこそガイドブックの出番です。このラーメンの何が美味いとされてきたのか、私がわからなくともそのラーメンを美味いと讃えてきた歴史があるのです。名店には伝統があるもの。そこにちょっと目を向けてきましょう。
なるほどこの店は麺堅がオススメだったのか、ここの辛味噌はこのタイミングで溶かすんだったのか、このラーメンは飲んだ後だと全然印象が違うなあとか。
それでも中々「この一杯」には出会えない。しかしラーメンを食べることから逃げなければきっと気がつく瞬間があるのです。
「美味いとか不味いとか」言うのは私の感想でしかなかった。そんなものは大した問題(=信心)ではなかったのだ、と。
そうです。どんな一杯でも「私のために作られた一杯」だったのです。私があれこれ批判する前に作り手がいたのです。作り手には私に「美味いラーメンを食べさせたい」という願いがあったのです。その願いに気づいた時、私はただ「いただきます」と手を合わせるだけだったのでありました。
ラーメンこそがそのまま信心だったのでありました(違うか
信心は時間をかけて養うもの
そもそも仏とは何でしょう?読経とは何でしょう?修行とは何でしょう?あなたは本当に分かっていますか?これは歳を重ねるごとに答えが深まってきます。そして一歩深みに入るごとに感動を覚え、その感動を肥料に信心の樹が育つものです。
実際にこの世界にドップリつかる前から信心めいたものがあるなら、それは仏教の信心ではなく、自分ストーリーですよ。今は何も分からない真っ白な状態の方が望ましいのです。
さて、ここの回答を拝見すると「私もそうだった」という声が多いですね。とても有り難いことです。仏門に限らず何でもそうですが、人は迷った経験や間違った経験、辛い経験や苦しんだ経験があればこそ、他人の痛みを理解できるようになります。そして他人の痛みが分かるからこそ、人の苦に寄り添うことができるようになります。それが宗教家の大切な素質の1つです。
お釈迦さまでさえ「生きてる意味あるのかな?」とか、「教えを人々に説く意味あるのかな?」と悩んだ経験があったからこそのお釈迦さまです。ウチの宗派の道元禅師も「修行する意味あるのかな?」という悩みを解決するために留学までしました。
人生に迷うということは、お坊さんにとって適当な1ステップです。迷いそのものを恐れるべからず。それもまた修行です。ま、ボチボチやりましょう。
いきなり目に見えない仏様を信じろと言われても困りますよね。私も信じていませんでしたから。
先ずは実在したお釈迦様のこと、その生涯や残した言葉の数々を学んでみてはどうでしょうか。
仏教とは、仏の教え、仏に成る教え。お釈迦様は人々に仏になるように勧めたのです。仏になればすべての苦しみや迷いが無くなるからです。
お坊さんになるという事は、お釈迦様のように人々を仏になるように勧めることです。
つまりは人々の苦しみを無くすことです。
信心もその為のものです。
あなたの宗派が何かは分かりませんが、お釈迦様の教えがあなたの宗派の教義にどのように受け継がれて、どのように檀家さんや信者の人々の苦しみを無くしてきたのか、人生を応援してきたのか、それを学んでいきましょう。
それが分かれば自然に信心が生まれてくると思います。
と言いつつも、私もまだまだ未熟者です。お坊さんになるなら、お互いに精進しましょうね。
ご仏縁
93様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
拙生も同じく「信心」はほとんどありませんでした。
修行も結局は、住職の病気により、仕方なく大学を休学して急遽行ったぐらいでした。
帰山して大学に復学してからも、仕方なく(ある意味では嫌々に)寺務・法務・作務をしながら、休学前からの続きとして、司法試験の勉強をしたり、政治活動をしたりとしていました。
しかし、ある時に大転機が・・
以来、一から仏教を学び進めて、やっと15年。
ようやく、最近になって、仏教への入り口に正式に入れたかな、と思い始めています。
「信心」もやっと少しという感じでしょうかね。。
そして、このhasunohaなどの超宗派の活動や未来の住職塾の受講など、「やる気」も少しやっと自分なりに出てきたといった感じです。
それもやはり、過去世と今も含めての色々なご仏縁の因縁(原因と条件)によるところもあるのではないかと。
仏教は、自分のみならず他も含めて一切衆生に対する迷い・苦しみを無くすための教え、きっと、この先、何かの機会において仏教の安心・癒し・救いが自ずと必要となる時もあることでしょう。
その時にこそ、しっかりと仏法と向き合い始めるための良い機会になるかもしれません。
僧侶になる、ならないは別として、いずれにしても、今あるご仏縁はご仏縁として大切に思って頂けましたら有り難くには存じます。
川口英俊 合掌
回心される事が大切ではないでしょうか
93さん、ご質問ありがとうございます。質問の内容は理解できました。自分も気にしている事ですが、信心よりも門徒さんを大事にしていくべきではないかと思いますねぇ。朝晩に仏様に合掌礼拝させて頂く事が大切です。いきなり僧侶になる事は難しいですが、ゆっくりと聴聞させて頂く事や1つ1つ実践させて頂き精進されると良いかと思います。 合掌
質問者からのお礼
沢山の回答有難うございます。
こうして積極的に活動されている皆様にも、私と同じような悩みを抱えていた方が多いことに、少し安心しました。私には他人に目を向けるという考えが抜けていたようです。いただいた助言に従っていろいろと調べてみます。
そしてひとまずは僧侶となり、お寺を継ぐことを前向きに考えてみようと思います。
考えに詰まったらまた質問に訪れるかもしれません。そのときはよろしくお願い致します。