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ちょっとしたことでは動じない心を持ちたい

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ちょっとしたことでは動じない心を持ちたい。

3月で大学を卒業し、社会人になるものです。幸い志望していた業界に就職することができたのですが、地元を離れ、見知らぬ地で、一人も知人がいない職場で、経験のない仕事をすることが不安になり、また、誰とも気軽にあえなくなることを考えると非常に寂しくなってきました。

しかし、このようなことはすでに分かっていたし覚悟もしていたし、どうしようもないので、もっとメンタルを強くしたいのですが、どうすればいいですか。どのような考えをすればいいですか。

何卒よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お安い御用です。

ある禅僧が東京大学で脳波の測定をしました。
坐禅をしてもらってその脳波を調べたところ、ある反応がみられました。
「ドン!」大きな音を立てたり、様々な試みがなされました。
するとその脳波は音がした瞬間だけに反応して、その後は普通の方々は乱れっぱなし、その禅僧は直後、その事に反応する様子がなかったそうです。
ここに物事に動じないヒントがあります。
「ドカン!」と大きな物音に反応しなくなったらそれは、聞こえていないか、死んだ人です。
物事に動じないとは、反応直後、なのです。
事があった直後、いつも無駄な取り繕いをしていませんか。
坐禅はその時、その事があればその時限りで完了です。
いわゆるキモが据わった人、物おじしない人、動じない人の境涯とはそういう事です。
興味関心があれば当山の坐禅会にお越しください。
座る坐禅、作法的な坐禅はほとんどしません。
生きた坐禅を学びます。
24時間の禅定を目指して、自己の本来性みつめ、自己の本来性に安住することで、余計なはからいが亡くなり寂黙になります。
禅宗であっても無くても坐禅は学べます。
仏教徒であってもなくても禅定は学べます。
❝どのように考えたら❞ではないのです。
「考え」というビジョンその物から外れられるのが坐禅です。
坐…外の出来事に動じない。外のことに私的な反応をしない。
禅…内なる想念に影響されない。沸き起こる思いを私のこととしない。
自分の心の中は生涯、自己責任ですので自分の心の同様や揺らぎは自らがおさめるより他はありません。
自らおさめるとは、この自分の活動すらやめてしまうことです。
完全に開け放ち、手放し、自分の脳内活動を放棄することによって禅定、坐禅なる様子が明らかになります。
結果的に動じない様子になっています。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

動じない人はいません

シューカ さんの質問を読ませていただきました。堂々とした人を見ると、ちょっとしたことでは動じない心を持った人だと思えます。ただし人の心はの中までは見えませんから、内心はどうかわかりません。私は「いつも冷静ですね」と言われることがありますが、難問が持ち上がった時などは熟考する方で、頭に浮かんだアイデアをすぐ口に出すことはありません。ですから他人から見ると、物事に動じず落ち着いていると思われるのでしょう。決して動じないわけではなく、まだ考えがまとまらないから発言を慎んでいるだけです。内心では困っているのです。
しかし、日常生活の中で大きな出来事があり、家人が慌てていても、それが自分の経験した範疇の出来事であれば、それに動じることはありません。過去に子供が交通事故を起こしたことがありました。初めての事故ですから慌てて電話して来ました。何をどうすればいいのかがわからず、頭の中がパニックになっているようでした。私は仕事上事故処理の知識もありましたので、必要な事項を伝えたあと現場に駆け付けました。親の顔を見て安心した様子が伺えました。私がなぜ動じなかったのかはわかりますね。それは自分が経験上知っていることだったからです。
いかに大事件に遭遇しても、誰もが自分の経験した事態であれば、動じることはないと思います。ですから、物事に動じない心を作るためには、いろいろなことを経験することだと思います。人生を積み重ねることにより、そういう心が育っていきます。
即席で作った動じない心は、すぐに壊れてしまいますが、ドラマであるように、芝居で動じていない様を見せなければならない場合もありますので、即席が絶対ダメとは申しません。
その他にスポーツ選手がやるようなプレッシャーに負けないメンタルトレーニングもありますので、そちらを利用する方法もあります。そのような活動をしておられるお寺もあるようですので、探して見て下さい。

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おきもち

個別相談可能
鳥取市にある浄土真宗のお寺の住職です。36年間のサラリーマン生活を経て2008年より専従住職をしています。金融・保険、ホテル、冠婚葬祭互助会などの勤務経験があります。営業、広告宣伝、総務、経理、ITなどの職種を経験しています。今年73歳になる年男ですが、比較的若い回答僧侶が多い中、老僧としてhasunohaにかかわりたいと思っています。
基本的に午前中はお受け出来ません。午後2時から午後8時に対応させていただきます。お寺ですので、急な法務が入りお約束の時間を変更させていただく場合がありますことをご了解下さい。

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