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シンプルには
ご自身が苦しみ、そして苦しみから抜け出る道を見つけられた。そして周りを見ると、過去の自身のように苦しんでいる者がいた。ゆえに助け(ようと)したのだと思います。
無執着という教えが世界を救うベースであると考えられた故、と理解しております。
苦しみの原因
慈悲・梵天勧請・空と縁起
りか様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「仏陀はなぜほかに苦しんでいる者を助けるのですか?」・・
慈悲の御心がゆえになりますでしょうか。。
自分一人だけ涅槃に入り、自分だけが救われるので良しとはされなかったのであるかと存じます。
また、悟りは、ある意味では衆生が存在しているからこそ得られられる境涯でもあり、その導き手としての大恩ある衆生を見捨てにはならなかったとも。あるいは、過去輪廻の幾世における無数の母たちが、今の(輪廻している)衆生であることを知られたため、その母であった恩ある者たちに報いるというお気持ちもあられたのかもしれません。
更に、もう一つは「梵天勧請」です。
衆生を憐れまれる慈悲の御心はおありでありましたものの、この悟った教えは誰に説いても理解はされないだろうと躊躇されていたところに、梵天が現れて、どうか教えをお説き下さいとお願いされたエピソードです。
梵天は、「衆生の中には、あなた様のその尊く有り難い教えを理解できる者もおります」と。
そこで、お釈迦様は、「相手に応じての対機説法・方便を用いてならば説けることもあるだろう」として、いよいよ法を説かれることになったというものとなります。
「仏陀はどのようにして無執着という教えからそれないで世界を救おうとしたのですか?」・・
「無執着」という言葉は、「空」と共に「縁起」を理解してからでなければ、なかなか正確な理解が難しいものであり、全てのモノ・コトは、「空」であって、実体が無い、独立自存として成り立っているものは無いが、存在するモノ・コトであれば、それらは、必ず何らかの他に依存して成り立っているとして、そのことを「縁起」と説明することになります。
しかし、まるであたかも存在の顕れのその先に実体があるかのように、他に依存せずに独立自存として成り立っているもののように捉えてしまう、そのことが「執着」であるとして否定されることになるのでございます。
そして、「縁起」としては成立しているありようを正しく理解することにより、簡単には、善き因縁(原因と条件)に依って善き結果もあり得ているのだとして、悟りへと至るための善き因縁に努めていくための教えをお説きになられたのでございます。
川口英俊 合掌
生を掴み、死を拒む。
他人の苦しみが痛いほどわかるから、ですかね。自分が嫌なことは他人にもしない精神ですね。
人間は好き嫌いする生き物です。好きなものはもっと欲しい、ずっと持っていたい。嫌いなものからは逃げたい、遠ざけたい。この機能が備わっている以上、「命、生きること」もずっと持っていたいと執着しますし、「老い、病気、死」からは逃れたいと抵抗してしまう。これを解決しないと人間に本当の幸せは訪れないと気づかれたのだと思います。