回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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私とどんな関わりがあるか
極楽があるか、ないか、どっち?と、
脊髄反射のように答えを求めるのは少し違うと思います。
仏さまの教えは、すべて「縁(えにし・つながり・関連性)」によって語られます。
すなわち「私にとっての極楽」という縁を前提にして極楽とは何かを尋ね、考え、捉える努力をすべきであると考えます。
その意味では、仮に極楽と私が「無縁」であるのなら、あるかないかを問う必要も無くなります。
加えて、その俳優さんにとっての極楽と、あなたの極楽、私の極楽も、その関係性において同一かどうか、にも心を致す必要がありますね。
関係性と書きましたが、極楽のイメージについても重要です。極楽とは、場所なのか、そういう心理状態なのか、単なる言葉なのか、あるいはもっと他のものなのか。
煙に巻く訳ではないですが、「極楽ありやなしや?」という問いかけのなかに、実はすでにあなた自身と極楽との関係という「主体性」が失なわれ、ただ「有無」という判断のみに執心している様子が感じられました。
仏教ってメンドクサくてスイマセン。
極楽があっても無くてもこの世をこそまず極楽に
死後の世界に限らず、遠くの目標や、今目の前にないこと、いつか極楽に行けるであろうと思うと、目前の今、ここの場所が色あせてしまうものです。
死後の世界の極楽を期することは、悪いことであるとは申し上げませんが、死後の世界があるから何でも大丈夫だぁ、で、ぶっちゃけ死後の世界がなかったとして、この世がおろそかになるとしたら何と悲しい人生でしょうか。
仏教は「死後の世界が極楽宗」ではないとだけは申し上げておきます。
私は自身に問いかけます。
今が極楽浄土になっているか。
過去の一歳を赦せて今が極楽浄土になっているか。
未来は未だ来たらず、いたずらに今無き事を期待したり、案じて、今を見失って、たった今の極楽浄土を見失っていないか。
人が生きている、呼吸をしているのは、いつでもの今、ここ、このこと。
そこ以外にあなたはいません。
未来を期待するのもあなたの今の一念。
過去を振り返るのも今のあなたの一念。
今は一念を生ずる前の確かなる真実世界という確かなる極楽浄土です。
ここを見ず、ここを親しく生活せずしていずれの所に極楽を思い描くというのでしょうか。
わたしゃ、このように自分に言い聞かせています。
遠くの極楽を求める必要が無くなった時は、再度ご一読頂ければありがたしです。
亡くなった時にわかることです。楽しみにしていてください。
伝法寺隼人さんへ、こんにちは。
極楽があるかないかは、永遠の議論ですが、あるかどうかは科学的には証明できません。唯一は自身が亡くなった時にわかるということです。
でも極楽があった方が、この世の善行の目標、悪行の抑止になっているのであれば、良い社会文化であると思います。
あなたにとって、極楽の設定が、人生にとって幸せな人生設計であることをお祈りします。合掌
ありますよ。
拝読させて頂きました。
極楽とはお釈迦様がお説きなさいましたお経の浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)に書かれております。
極楽は阿弥陀仏が長い長い間の修行を経て完成させました国です。
そこでは阿弥陀仏が一切の生きるものを救う為に作られたところです。
そしてそこでは一切の苦しみもなく迷いや貪り食べや怒りの様な諸悪はなくなります。
私達は「どうか仏様私をお救いください!」と心より願い南無阿弥陀仏とお念仏おとなえすれば必ずや仏様は私達をお導き頂き、極楽に生まれさせてくださいます。そして極楽にて私達は仏となることつまり成仏することができるのです。
もしもご興味がございましたら学んでみてくださいね。浄土三部経はたくさん書籍でもありますからね。
あなたにとって仏教を学ぶご縁が結ばれます様にとお祈り申し上げます。
どうありたいと願うか。。
こんばんは。
仮にあるとしても、実感が持てないものなら意味をなさないですよね。
死んだあとはどこを歩むのでしょうか。
死んでなお、苦しい道を歩まなければいけないのか、
あるいは、苦から解放された世界を歩むものなのか。
その人その人がどうあってほしいと願うものか。
それによって、信じるものが変わってくるように思います。