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悟りについて。

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スピリチュアルが定着して、仏教徒ではない方がブログなどで〈悟りを開くには〉といったテーマで独自の教えを広めているように思います。
それが仏教で言うところの悟りなのか、疑問に感じますが、本来の悟りがどういうものかすら私にはわかりません。
仏教でいう悟りを開くとは、どのような状態をさすのでしょうか。
また、仏教徒ではない者が悟りについて独自の教えを広めている件について、どのように感じられますでしょうか。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あらゆる思いからの解脱

人間はいつも思考の泡を作り出しています。
思考の泡越しに世界を見ています。
自分がこうして今やっている事も思考の泡を作り出しているという事にすら気づきません。
悟った、悟ったとやっている人たちも、結局扱っているのが思考の泡の世界であることに気づいていません。
では悟りにはどうすればよいか。
この思考の泡は放っておけば自然に割れます。
多くの人は、この泡を割ろう割ろうと、思考で割ろうとしますから、ぽんぽんアワワが出てきてしまいあわわわわです。
アワワを消したいという思いもあわわ、泡だからです。
消そうとも思わず、本当に放っておけるようになると、
泡はしずまり、本当に事実だけになります。
やがて自分を自分と呼ぶ自分の意識も明白になり、それも自覚されないようになります。
そこにあるのは事実だけです。
認識、分別、分析の知恵を離れた安らかな心です。
一回二回やそこら「なった」というのは誰にでもある体験です。
戻ってきてしまうのは悟りではありません。
悟りはむしろ入り口なのです。「住持」が無ければ一回美味いもん食ったという自慢程度です。
美味しい心に到達したならば、「今、オマエ、実際にどうか?」です。
禅門では悟りとは「顧み」です。三昧、無我、無私に至って後の「ああ、あそこで思考が途切れたなぁ」と自覚する一瞬の作用です。
あとは三昧、涅槃、悟後の生活、その心を以って修行するから住持、護持、閑寂の人です。
それが修証です。また別名、思考のアワワを離れた安楽な生活ですから「非思量」の生活です。
思いから外れて、事実に住する時、そこには私的な見解はありません。
悟り比べみたいなのは皆、思考でやっているのです。
悟ったと言いながら、分別でやってる訳ですから、黙った、黙った、静かになった、なった!と言いながらしゃべっていて静かでないようなものです。
悟っていないものの言葉は所詮、学者と同じ推測屋さんの言葉なのです。
だから、自分も相手も救われないし、実際にそういう力も発揮できないし、他人どころか自分も救われていないという、悲しい妄想家たちなのです。
もう少し賢い妄想家はこのままじゃいかんと思えるから立派です。
悟った人は、人を悟らせることができます。
それが無ければ、独りよがりの悟り思想、仏教思想であって、訳には立ちません。

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おきもち

楽しい「悟り」。

仏教の悟りとは、煩悩の火を吹き消した状態である「涅槃」の状態をいいます。

どのようにしたら、その状況に達することができるのでしょうか。

あらゆる事は「諸行無常」なので、物事に執着してはいけない、といいますが、
「執着しない」って想像以上に難しいです。

なので、仏教的ではなく、私見を述べさせていただきます。

私は、「仏教」とは、生きていくときの悩みを少しでも減らし、
穏やかな気持ちで過ごしていくことのできるような「学問」だと思っています。

修行によって自分を高め、執着心をなくしていき、
苦しみを減らし「悟り」に近づく事も、幸せに生きるためのひとつの手段ですが、
私は、楽しい事をしているうちに、集中してくる状態も「悟り」に近いと思っています。

物事に執着しなければ苦しむことはありませんが、
執着しない事によって、楽しい事まで捨ててしまう必要はないです。

面白い本を集中して読んでいるときなど、
「悟り」の状態と呼べるのではないか、とも思います。
時間を忘れて、物事に没頭できるなんて、
悩みのない、幸せな時間に違いないですから。

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おきもち

佐山拓郎
浄土宗の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間のサラリー...
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悟りとは

悟りとは、自分という存在が一切なくなった、思考を離れた世界をいうのでしょう。とは言ってもそれは別世界ではなく、今私たちが生きているここに存在しているのだと、捉えています。

仏教徒ではなくても、悟りはえられるのかもしれませんよね。宗教としてではなく、人間本来の生き方、あり方を見つけ出すというシンプルなものなのではないかと思います。

しかし、うそはよくないと思います。悟っていないのに悟ったと言ってはいけないと思います。人々を迷わせ、ときに金儲けの道具として使ってしまっては、それは許されないことだと思います。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す...
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悟りとは

臨済宗では昭和初期の大禅匠として大変有名な山本玄峰老師という方が居られますが、この方の没後、有縁の方々が寄稿されたり講演録を集めた『回想 山本玄峰』玉置辨吉編著 春秋社1970 という本があります。
この中に玄峰老師の法嗣である中川宗淵老師が、玄峰老師の遷化後間もない頃に東京谷中の全生庵で、玄峰老師の一代記をお話になった講演録が収録されていますが、中でも146Pに玄峰老師が八幡の円福寺で見性宗般老師から法を嗣いで印可証明を得た時の逸話が掲載されています。

ここで悟りについて中川宗淵老師が次のように仰っています。
「何も、それで修行が終わったのではないけれども、もうこれで何処に出ても、何処に転がしておいても、一人で修行が続けて行けるという証明であります。」と。

小衲は以来、仏教の悟りとはこういうものだと合点いたしました。

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おきもち

昭和39年生。昭和62年佛教大学卒。
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分かりやすい学者さんの本

藤本晃著、『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造 』(サンガ新書)などは価格も手ごろ(950円)ですし、分かりやすく書いてあると思います。

いますぐ、ということですと、同じく藤本博士の、
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html#2-1
などをお読みください。

藤本博士は山口県の誓教寺住職です。簡単にインターネット上で連絡が取れる人なので、この方に尋ねられることをお勧めします。

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な...
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質問者からのお礼

藤岡様、情報をありがとうございました。
リンク先をざっとよみましたが、今度時間の有るときにじっくりと読んでみたいと思います。

邦元様、具体的なご説明をありがとうございます。
自分という存在がなくなった状態、というのが私にはさっぱり想像もつかないのですが、私利私欲のない、自他の区別のない状態、でよろしいのでしょうか。
自他の区別のつかない人はたまにいますが、「自分のやり方が絶対良いのだから他人にとってもそうに違いない、異論は認めないし意見を言ってくる人は悪!」というのではなく、自分のやり方を大切に思うのと同様に他人のやり方もその人にとっては最良なのだと尊重することでよろしいのでしょうか。

邦元様、悟ってもいないのに悟ったと偽る方というのは、精神疾患が寛解した方や引きこもっている方が多いように思います。
歪んだ自己像と存在の証明、社会に馴染めない、人とは違う自分を特別な存在として尊重しようとする行為のように感じますが、自分は自分はといって主張している時点で本来の悟りとは程遠いと考えてよろしいでしょうか。
かつて雲黒斎というペンネームの方がうつ病にかかったのをきっかけに悟ったとして「あの世に聞いたこの世の仕組み」という本を出してから以降、病んでいるかたが次々に自分も自分もと悟っているように感じます。
ある意味で、それも悟りなのかもしれませんが仏教でいうところの悟りではやはりないのだろうな、と思いました。
ありがとうございました。

山本様、貴重なお話をありがとうございました。
悟りをひらいても特別なことはなく、さらに自分一人でも修行ができるようになっただけ、という謙虚な言葉に感銘を受けました。
やはり仏教徒のかたは自我を削ぎ落としていらっしゃる、と、自分を恥ずかしく思います。
ありがとうございました。

佐山様
集中しているときは思考にとらわれていないかもしれませんね。そのような状態が悟りだとするなら、日常生活で悟っている状態を経験しているのですね。ただその状態がずっと続くわけではないので、悟りとは簡単なものではないのでしょうね。
ご回答ありがとうございました。

丹下様
思考が浮き上がってきては消えていくようなものでしょうか。
たとえば仕事で、より良い方向性をかんがえて結論を出さなければならないときなど、いやでも思考しなければなりませんが、それも煩悩なのでしょうか。
このように考えることも煩悩であって悟りには程遠いのでしょうか。すると、考えて方向性を定めなければならない仕事をしている人は苦しみの輪廻から逃れられないということになってしまいますが、そうではないのでしょうか。
ご回答ありがとうございました。

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