般若心経の空とは
空とはなんですか?
私たちは存在しないと書いてある本もありました。確かに昨日今日では変わりはわからないと思います。それが10年なら変化もわかるし、もしかしたらこの世にいないかもしれません。
でも、諸行無常と言うように毎日移ろい変わっているんですよね。同じように見えて同じ毎日はないんですよね。だから一日一日を大切にしなければならないのに、その有り難みがなかなか解らないんですよね。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いつでもそこで始まって終わっている
・心はいつでも新しく咲いていて、さっきの事が何処にもない故に空という。
・「くう」(空)という言葉を発する間に「く・う」という音も文字も、もうどこにもない、とどまり、停滞が無いさまを空という。
たとえば、あなたの沢山のお悩みはいつ始まるか?
そして、いまどこにあるのか?
ありゃしません。思い起こしていないのですから。
一念想起して、思い起こせば脳裏に現れるだけ。
ところが、このご質問を打っておられた時は、一文字一文字になりきっていたはずですから、悩みやら例の義母やら母やらはどこにもなかったはずでしょう。それが空です。
あなたが心において執着を起こせば空ではなくなる。
固になり、有になり、残になる。
空とは、何の遮りもなく、自由に活動できている無私、無我の心です。
誰もが有する全自動自己心浄化スイッチと言ってもいいでしょう。
普段はみんなその空スイッチが何処にあるかに気づかんから終わったはずの事もとどめてしまう。
自分の思いに邪魔されて心のふんづまりになるのです。
何がそうさせるかといえば、ワタクシという固見、固定見、我見が邪魔をします。
だから坐禅や瞑想や仏行を通じて、本来の全自動自己浄化スイッチをONに作動させことで、誰でも救われる。人間の認識を離れるからです。
かき氷はかき氷と呼ぶ間に水になる。
煙は煙と読んで忘れた頃にゃ灰に。
扇風機が右を向いていたのはいつの事か。左と呼ぶ間に、こっちゃ向く。
もっと言えば、そんな言葉すら要らない。
ただ、目前のそれが、ただ、そういう「さま」である。
自分のものの見方を加えるから空から離れて、真っ逆さま、真っ逆さまな視点になる。
あなたがいつも腹たてとる母や義母や義父やダンナは、あなたがどうこう言おうが、その通りそのさまです。アナタがそこに居なければ、そこに何の私的な思いも寄せ付けないから、自由に変化流転している。第三者から観れば何の問題も汚れもないでしょう?それが、人間の私的見解から離れた安楽なさま。=空。自分(自我意識、自我セルフ見解)が無いから安楽世界、空なるさまなのです。
空とは魂が無いことを表します
世の中には当然物質的なモノはたくさん存在します。
「空」とは、そのモノには普遍的本質は備わっていないという概念です。
モノとは全てであり、私も生き物も物質も全てです。
例えば、1万円札があったとします。
これをお金と認識するのは私であって、この1万円札にはお金という本質はありません。
お金を全く知らない人が見たならば、絵が印刷された紙と認識されるでしょう。
またトイレではお尻を吹く紙になるかもしれませんし、ヤギが見れば美味しそうな食べ物に見えるかもしれません。
つまり「これは一万円だ」と認めてくれる相手があって、初めて一万円というお金が存在することになるのです。
「トイレの紙だ」「ヤギのエサだ」と認識されれば本質は変わるのです。
これを【空】と言い、また別に【縁起】【無我】ともいいます。
そのもの単体が普遍的に変わらない本質を備えて存在しようとするならば、アートマン(魂)が必要なのです。
相手がいなくても存在させるには、魂が必要なのです。
しかし、仏教は全てのものにアートマンは無いと捉え「無我」であると説きます。
無我であることは同時に空であり、空であるから縁が触れればでコロコロと変わっていくのです。
諸行無常・諸法無我とも表現します。
ものは存在するけれども、その本質はコロコロ変わる。
変わるのは対峙するものがどう見るかで変わっている。
私を「私」と認識してくれるのは対峙している相手であって、私に魂があって「私という魂」によって私が認識されるわけではありません。
私にも本質がなく本質は空っぽなのです。
そこが仏教と他の宗教の大きな違いの一つです。
ほとんどの宗教は「魂」を肯定した「有我思想」に基づくものです。
仏教が偏った執着をよしとせず中道を進める理由は「世の中の全てが空」だからです。
コロコロ変わるものに執着していている人生は無駄死にです。
中身が空っぽのモノに中身を求めて人は悩み苦しんで死んでいきます。
空とは、夢・幻みたいだ、ということ
空とは、夢・幻みたいだ、ということ。
すべての現象は、因縁、原因と結果で成立しており、単独ではありません。(縁起)
すべての現象は、独立した「それ自体」という実体がありません。(無我)
すべては無我なので、すべては夢・幻のように頼りない、執着に値しないものなのです。(空)
縁起ゆえに無我、無我ゆえに空。
すべてが空であるなら、ひとつひとつの現象や物体の表面上の見た目、姿形、特徴といった「相」も、本当はないのです。(無相)
無相であり、特徴的な差異が本当はないなら、何かを嫌って何かを願い欲する必要もなくなります。(無願)
空・無相・無願の三つを三解脱門と言います。
この他に、すべては無常である、すべては苦であるという観点からも、空につながります。
「ありがたいと思うようにしよう」とすることすらしない
空であるから、「ありがたいと思わなければいけない。」という気持ちで思いをつけたしていくと、
思いの世界に振り回され始めるように思います。
ただ、その瞬間瞬間は、あるがままに流れていて、いまだかつてない新しい瞬間の始まりがある。
それだけであると思います。
そこに、価値を付け加えたりすることなく、当たり前に受け入れることが重要なのだと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
いつも頭の中で悩んでいるわけだなく、何かきっかけがあったり、ふっと思い出したりする時なんですよね。
思い出さなければ悩む事もありません。きっかけがなければ思い出しません。
悩むとつかれるから、最近は考えないようにしています。
ありのままでいいのかな?と思います。
ありがとうございました。
当たり前だと思っている事(健康や安全)でもそれはぐうぜんであり、数秒後はどうかわかりません。
一瞬一瞬を大切にする、感謝する事が大切ですよね。