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般若心経の空とは

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空とはなんですか?
私たちは存在しないと書いてある本もありました。確かに昨日今日では変わりはわからないと思います。それが10年なら変化もわかるし、もしかしたらこの世にいないかもしれません。

でも、諸行無常と言うように毎日移ろい変わっているんですよね。同じように見えて同じ毎日はないんですよね。だから一日一日を大切にしなければならないのに、その有り難みがなかなか解らないんですよね。

2015年8月20日 13:50

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつでもそこで始まって終わっている

・心はいつでも新しく咲いていて、さっきの事が何処にもない故に空という。
・「くう」(空)という言葉を発する間に「く・う」という音も文字も、もうどこにもない、とどまり、停滞が無いさまを空という。

たとえば、あなたの沢山のお悩みはいつ始まるか?
そして、いまどこにあるのか?
ありゃしません。思い起こしていないのですから。
一念想起して、思い起こせば脳裏に現れるだけ。
ところが、このご質問を打っておられた時は、一文字一文字になりきっていたはずですから、悩みやら例の義母やら母やらはどこにもなかったはずでしょう。それが空です。
あなたが心において執着を起こせば空ではなくなる。
固になり、有になり、残になる。
空とは、何の遮りもなく、自由に活動できている無私、無我の心です。
誰もが有する全自動自己心浄化スイッチと言ってもいいでしょう。
普段はみんなその空スイッチが何処にあるかに気づかんから終わったはずの事もとどめてしまう。
自分の思いに邪魔されて心のふんづまりになるのです。
何がそうさせるかといえば、ワタクシという固見、固定見、我見が邪魔をします。
だから坐禅や瞑想や仏行を通じて、本来の全自動自己浄化スイッチをONに作動させことで、誰でも救われる。人間の認識を離れるからです。
かき氷はかき氷と呼ぶ間に水になる。
煙は煙と読んで忘れた頃にゃ灰に。
扇風機が右を向いていたのはいつの事か。左と呼ぶ間に、こっちゃ向く。
もっと言えば、そんな言葉すら要らない。
ただ、目前のそれが、ただ、そういう「さま」である。
自分のものの見方を加えるから空から離れて、真っ逆さま、真っ逆さまな視点になる。
あなたがいつも腹たてとる母や義母や義父やダンナは、あなたがどうこう言おうが、その通りそのさまです。アナタがそこに居なければ、そこに何の私的な思いも寄せ付けないから、自由に変化流転している。第三者から観れば何の問題も汚れもないでしょう?それが、人間の私的見解から離れた安楽なさま。=空。自分(自我意識、自我セルフ見解)が無いから安楽世界、空なるさまなのです。

2015年8月20日 14:41
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

空とは魂が無いことを表します 

世の中には当然物質的なモノはたくさん存在します。
「空」とは、そのモノには普遍的本質は備わっていないという概念です。
モノとは全てであり、私も生き物も物質も全てです。

例えば、1万円札があったとします。
これをお金と認識するのは私であって、この1万円札にはお金という本質はありません。
お金を全く知らない人が見たならば、絵が印刷された紙と認識されるでしょう。
またトイレではお尻を吹く紙になるかもしれませんし、ヤギが見れば美味しそうな食べ物に見えるかもしれません。
つまり「これは一万円だ」と認めてくれる相手があって、初めて一万円というお金が存在することになるのです。
「トイレの紙だ」「ヤギのエサだ」と認識されれば本質は変わるのです。
これを【空】と言い、また別に【縁起】【無我】ともいいます。

そのもの単体が普遍的に変わらない本質を備えて存在しようとするならば、アートマン(魂)が必要なのです。
相手がいなくても存在させるには、魂が必要なのです。
しかし、仏教は全てのものにアートマンは無いと捉え「無我」であると説きます。
無我であることは同時に空であり、空であるから縁が触れればでコロコロと変わっていくのです。
諸行無常・諸法無我とも表現します。

ものは存在するけれども、その本質はコロコロ変わる。
変わるのは対峙するものがどう見るかで変わっている。
私を「私」と認識してくれるのは対峙している相手であって、私に魂があって「私という魂」によって私が認識されるわけではありません。
私にも本質がなく本質は空っぽなのです。
そこが仏教と他の宗教の大きな違いの一つです。
ほとんどの宗教は「魂」を肯定した「有我思想」に基づくものです。

仏教が偏った執着をよしとせず中道を進める理由は「世の中の全てが空」だからです。
コロコロ変わるものに執着していている人生は無駄死にです。
中身が空っぽのモノに中身を求めて人は悩み苦しんで死んでいきます。

2015年8月21日 23:46
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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

空とは、夢・幻みたいだ、ということ

空とは、夢・幻みたいだ、ということ。
すべての現象は、因縁、原因と結果で成立しており、単独ではありません。(縁起)
すべての現象は、独立した「それ自体」という実体がありません。(無我)
すべては無我なので、すべては夢・幻のように頼りない、執着に値しないものなのです。(空)
縁起ゆえに無我、無我ゆえに空。

すべてが空であるなら、ひとつひとつの現象や物体の表面上の見た目、姿形、特徴といった「相」も、本当はないのです。(無相)
無相であり、特徴的な差異が本当はないなら、何かを嫌って何かを願い欲する必要もなくなります。(無願)
空・無相・無願の三つを三解脱門と言います。
この他に、すべては無常である、すべては苦であるという観点からも、空につながります。

2015年8月22日 12:49
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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

「ありがたいと思うようにしよう」とすることすらしない

空であるから、「ありがたいと思わなければいけない。」という気持ちで思いをつけたしていくと、
思いの世界に振り回され始めるように思います。

ただ、その瞬間瞬間は、あるがままに流れていて、いまだかつてない新しい瞬間の始まりがある。
それだけであると思います。

そこに、価値を付け加えたりすることなく、当たり前に受け入れることが重要なのだと思います。

2015年8月20日 20:05
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございました。
いつも頭の中で悩んでいるわけだなく、何かきっかけがあったり、ふっと思い出したりする時なんですよね。

思い出さなければ悩む事もありません。きっかけがなければ思い出しません。

悩むとつかれるから、最近は考えないようにしています。

ありのままでいいのかな?と思います。

ありがとうございました。
当たり前だと思っている事(健康や安全)でもそれはぐうぜんであり、数秒後はどうかわかりません。

一瞬一瞬を大切にする、感謝する事が大切ですよね。

「般若心経」問答一覧

般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

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浄土真宗の父の墓前で般若心経を唱えても良いでしょうか?

私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。

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浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?

父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
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