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座禅について

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心を落ち着かせるためにも、最近周りでも話題の座禅を組んでみたいと思います。 ですが、私は足に障害があり、畳の上などに座ることが出来ません。正座も胡座もかくことは不可能です。その場合に同様な行為をするにはどうしたら良いでしょうか?体験で座禅、というお寺も何件かはあるのですが…。写経もやはり正座して行うのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

座禅ではなく心が坐禅になることで24時間坐禅になるのです

ご安心ください。坐禅は足でするものではありません。
私も毎週❝座らない坐禅会(心が坐る禅会)❞を開いてます。
座る坐禅はイスでも行っています。
そもそも「座るという行為にこだわる坐禅」は間違っていると思います。
坐禅の入り口は座る❝座の禅定❞から入るものですが、その実質は坐禅を明らめゆくと【足が座禅することよりも心が坐禅・禅定になる】事が重要である事はすぐに分かります。イス坐禅でも、足を組まない坐禅でも問題はありません。仏法を明らめるのが坐禅。心が坐禅になることが大切です。ここを明らめずに坐禅=座=すわるもの=只管打坐(ただ座るだけで心身脱落・得法・安心がない禅)だと誤解している僧・仏教者は実に多いです。彼らは修行道場で三カ月~5年程度の修行で修行道場を後にします。坐禅といっても1・2年上の古参から教わる坐禅が多く、僧達は坐禅を誤解したまま修行道場を後にします。指導職の老師と言われる方々でも悟り・心身脱落を会得された指導者ではない老師の場合もあり「正師」に出会えないまま文字通りただお座りザゼンをして内容を精査しないまま修行道場を下りて世間で坐禅指導しますから実にいい加減な坐禅、カタチばかりの坐禅が広まっています。本人たちの身心脱落に裏付けされた坐禅ではない。だから形だけの足座禅指導が広まっているのです。
現代禅宗の実状は危機的です。戦後、明眼の指導者が不足したために本庁の坐禅の教義の統括によって「只管打坐」に縛られてしまった心身脱落の無い邪禅に堕したと私は感じております。ただ坐った所で何になるのでしょう。心が安心してもその後はどうなのでしょう。
そういう指導にはご注意ください。
およそ50年前に本庁から発行された「坐禅の手引き」という全国寺院に配布された資料によって誤った坐禅観が広まっていると言われております。
実際に曹洞宗の本庁・本山には印可証明をお持ちの真の老師、心身脱落を明らかにした老師が坐禅の指導職に就くことは稀です。これは私自身曹洞宗本山10年の中でお会いした法友・老師方との交流の中で明らかになった真実です。
結果、❝座❞禅をはじめ、休息座禅、忍耐座禅、精神修養坐禅、無目的座禅、只管打坐禅という道元禅師の説かれた心身脱落・脱落身心から目を背けた坐禅が世間に広まっている坐禅の大半であると感じます。いずれ坐禅を続けていって疑問を感じられましたらいつでもどうぞ。

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有り難し
おきもち

こんばんは。

 坐禅をしてみたいとの事、良いですね。

 曹洞宗では「椅子坐禅」という坐禅を提案しています。姿勢と呼吸が調えば、心が調います。足の形にとらわれる必要はありません。
 坐禅会を行う会場に「椅子での坐禅はできますか」とあらかじめ確認しておくと良いでしょう。



 写経も机と椅子で行えば良いです。筆記具も、マジックや鉛筆でも良いです。
 写経はご自宅で行っても良いですし、お寺で行いたい場合は、椅子でできるか確認してから行きましょう。だいたいのお寺さんは、机と椅子を用意してくださると思います。

 良いお寺さんを見つける事ができると良いですね。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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救いのある禅

私のところでも坐禅を椅子出される方もいます。どんな形でもできるものだと思います。ベットで寝ていても坐禅はできるのだと思います。
形を整えることではなく、それよりも自分自身が救われるのが禅なのだと思います。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

早速のお返事をありがとうございます。
椅子でも行えるとの事、嬉しく思いました。
すぐにでも行いたいと思います。
思えば子供たちが寺院の幼稚園に行っていた頃座禅の授業がありました。20年近くも前のことなのに娘は何かしらあった時でしょうね、
「座禅しよ!」と足を組んでいます。
私もより良く心を整えるべく、行いたいと思います。ありがとうございました!

追記 動画までアップして頂き、大変、参考になりました。この動画を見ているだけでも心が落ち着いてくるようです。
先日別件でこちらで質問させていただき、大分落ち着いては来たのですがまだまだ雑念、と言うか怨念?執着?様々な乱れを捨て去ってしまうことが出来ずにいます。是非、座禅会などに参加し、落ち着いた生活を取り戻したいと思います。

安穏寺 丹下様

なるほど、形ではなく心の有りよう、なのですね。確かに私も心を落ち着かせたい、という目的がありますので間違った形やとらわれてはならない所でした。
ブームのようになっていますが、本来は何のために座禅をしようと思うのか? を考えさせられました。ありがたいお言葉を胸に、心を整えていきたいと思います。

ありがとうございました。

円通寺 邦元様

心を平らかにすることこそ、禅であるのですね。心を落ち着かせるため、と思っておりましたが、そうではなく、形ではなく心が落ち着くからこそ、の禅。ありがとうございます。
醜い想いを追い求めず、無理に払うこともなくあるがままに受け入れてみます。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

有り難し有り難し 34
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ