飲酒について
お酒を飲みたい思いと葛藤しています。
親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。
ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」
「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」
とありました。
不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。
みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。
飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。
ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。
罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。
飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なぜ、そこまで不飲酒にこだわるのでしょうか?
仏教に「不飲酒戒」があるのは事実ですから、お酒は飲まない方がよいのは間違いありません。
ただとても気になっておりますのは、あなたがなぜそこまで「お酒を飲む・飲まない」にこだわるのかということです。
お酒の席で、あるいはお酒を飲んで何らかの失敗をされたのでしょうか。そのことを後悔して今後はお酒を飲まないようにされたのでしょうか。
あるいは、戒律を守ることで何らかの仏教的なすくいを得ようとされているのでしょうか。
戒律を守る…と一口にいっても、比丘尼(女性の修行僧)には350戒ほどもあるのだそうです。お酒を絶つ位では到底済まないのです。
浄土真宗では戒律を言いません。守らなくて良い訳ではもちろんありませんが、「戒律を到底守れない自分に気付く、弱き自分を認めていく」ことに一番の重きを置きます。そしてそんな私をすくう仏として阿弥陀様を仰ぎつつ、生きていく道です。
お酒を飲んで良いはずはありませんが、このままではあなたは「今はお酒を飲まないでいられるが、いつかは飲んでしまうのではないか」という不安を抱えつつ生きることになり、それは仏法を有り難く頂戴しつつ、心安らかに生きる人生とはとても申せません。
なぜお酒を離れようとするのか…そのあなた自身のお気持ちに向き合うことこそが大切なのではないかと感じます。
戒律を守ることは自分を律する「聖なる闘い」
あおさん
「五戒」について真剣に考えていることをうれしく思います。私は20年以上前に、せめてこれくらいは守ろうと思いお酒は断ちました。自分が決めたことなので、飲まなければいいだけの単純な決意で済むはずでした。ところが社会生活上、さまざまな障害にぶつかりました。
不飲酒戒については「飲むための言い訳論」ばかりが多く、守ろうとする者が逆に攻撃されるというおかしな現象があるのが現実です。「そもそもそんなことに拘るのが執着だ」と頭の良いお坊さんに言われると、返す言葉がなく守っている方が肩身の狭い思いをしたりします。他国では宗教上の信念は尊重されますが、日本で「仏教徒なので戒律上お酒はいただきません」とはいえない雰囲気です。
戒律は制約や強要でなく、自分を律するものであると私は考えています。刑法上の罪ではないので、破っても目に見えた制裁はありません。守るかどうかは自分との誓約です。だから人が破っていてもそれに対して批判する必要もありません。
知らない人は飲んでも許される。知っても言い訳をして飲み続けることも許されます。言い訳をして飲んでいてもそれで納得できるとか、良心が痛まないのあれば、それはその人の問題です。
『五戒』というものを知り、それを守ろうとしているところに、すでにあなたという人が清らかな道を歩みたいという菩提心があるのです。多くの人は、都合のいい言い訳でスルーしてしまうところに、心をとどめ、疑問をもち、葛藤しています。あなたが仏教に向ける心に純粋な清らかさを感じます。
煩悩との闘いは生きている限り続きます。それは自分との闘いです。敵は「都合の良い言い訳」「詭弁」という自分の内側にいる場合もあり、あるいは他人からの攻撃だったり、社会上の不便など自分の外側にある場合もあります。清らな歩みをしようとする者を惑わす誘惑はたくさんあります。悪魔のささやきは甘美です。だから闘いです。戒律を守ることは自分を律する「聖なる闘い」です。
いまのあなたの純粋な葛藤を大切にしてください。仏道修行は「戒➪定➪慧」とすすんでいきます。自分の生活の在り方を見つめるところから始まります。仏道は自分と向き合うことです。真摯に向き合い葛藤しているあなたに心からのエールを送りたいと思います。あおさんのもつ清らかさを守り育ててください。仙如
不飲酒戒については、おそらく遥か昔から様々に解釈されてきた戒のひとつだと思います。
飲まないのが一番いいでしょう。
ただ、私としては、
なぜ飲んではいけないかと言えば、理性を失うからです。
ですから、あなたがもしアルコールに耐性があり、例えばコップ一杯なら理性を保てるなら、コップ一杯なら飲んでもいいでしょう。ただし、自分では酔うと判断できないので、周りの人に確認して貰ってくださいね。
また、お酒だけではありせん。ドラッグ、睡眠不足、有頂天、怒り、など理性を失うことは避けましょう。このような意味も含まれていると思います。
なお、戒を完全に守ることは苦行です。
お釈迦様は苦行には意味がないと言いました。
しかし、快楽に浸って怠けてはいけないとも言いました。つまり、その中間の道を歩めということです。これを中道といいます。
中道を知るためにあえて苦行をすることは良いでしょうが、苦行だけにこだわらないようにするのがいいと思います。こだわりは執着の元ですからね。
余談ですが、江戸時代の浄土宗のお坊さんが弟子に書いた指南書には、お酒は飲んでもいいが決して酔ってはならない、とあります。これはこれで私にとっては苦行かもしれません。
独り善がりが飲酒
不飲酒を不酤酒と言うことがありますが、これは「人を迷わすものを酤(う)るな」となります。そうした時に、ちゃんとした正統派のお坊さんが運営するサイトならともかく、個人で独自の解釈をバラ撒いているようなのが酤酒に他なりません。ああいうの読んでちょっとでも救われましたか?ただ迷いを生んだだけでしょう。あの手の酒を鵜呑みしないのもまた不飲酒です。あの手の人達がまかり違って人気が出てしまい、勘違いして独学をこじらせにこじらせるとオウム真理教の一丁上がりです。
本当に安楽の法門としての戒を習慣にしたいなら、ちゃんと戒の理解のあるお坊さんから受戒しましょう。ストイックなお坊さんに師事したければストイックなお坊さん探せば良いです。最近の若いお坊さんはお酒飲まない人が少なくありません。そもそも出家する前から飲まない世代ですしね。時代として飲ませる雰囲気も無くなりつつあり、私もとても助かっています。あるいはホドホドな人に師事したければホドホドな人を探しても良いです。でもですね、つまみ食いは一番やっちゃいけません。戒は法律でも規則でもルールでも採点基準でもありません。そこのトコからキチンと教えを受けないから迷い、毒となるのです。
迷いとは何か?自分ルールや自分イメージの暴走です。仏教的に酔いが覚(さ)めている人は無我です。自分を生きないんです。情報をつまみ食いして解釈に振り回される方向性に救いはありません。独学もまた飲酒です。
まずは坐禅会でもプチ修行でも念仏講でも授戒会でも精進料理教室でも何でも良いですからお坊さんとご縁を持ちましょう。その上でお医者さんの定期健康診断のように、お坊さんに継続的に時々診てもらってアドバイスをもらいつつ、生活習慣を調えることが大切です。
質問者からのお礼
大慈様 ご回答ありがとうございます。これまで色んなサイトを読んでは不安になり、どれを信じてよいのか、どうやって生きていくのがよいのかと自分で決めることができずにいました。『情報をつまみ食いして解釈を振り回される方向性に救いはありません。独学もまた飲酒です。』とのお言葉をお聞きし、これまで私がやってきたことを反省し、今の自分の様々な考えから早く抜け出していきたいと思いました。
仙如様 ご回答ありがとうございます。戒律は制約や強要でなく、自分を律するものと教えていただき、なるほどと思いました。 仙如様が、私を、仏教に向ける心に純粋な清らかさを感じるとおっしゃってくださいましたが、その反対でとても悩んでいます。子供の頃から、お参りや法要でお寺に行く時など、極度に緊張し、純粋な気持ちでお参りができず、ひどい考えが浮かんだことも度々ありました。清らかな心になりたいです。
聖章様 ご回答ありがとうございます。苦行だけにこだわらないようがいいと教えていただき、肩の力が少しぬけたように感じます。こだわりは執着のもとと教えていただき、これまで色んなことにこだわって執着してきたかに気付かされました。
小林覚城様 ご回答ありがとうございます。お酒の席で失敗するのが怖いというのはないのですが、なぜ私がこだわり続けるのかが、自分自身でも分からずにいます。仏教的な救いを得たいと思うのもありますが、飲酒をしている人が救われないと思っているわけではありませんし、自分の本当の考えが分かりません。仏法を有り難く頂戴しつつ、心安らかに生きる人生を歩んでいけるようになりたいです。