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正法眼蔵第59「家常」に関して質問です。

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正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真の困りには困るオノレを顧みることがない。

仏法の大意を明らかにしていない「飢」なる自己にあるとしても、自分は未熟だ、未完成だ、まだ満たされていない、と卑下をする事でその卑下が思考であるから事実からブレるということです。

「しかあればしるべし、飢一家常ならんわれは、飯了人なりと決定すべし。」

「あなたが今悟っていてもいなくても、その思考を用い来らぬ時は、脚色なし。考えの上で手脚をつけない天然無為の純粋自己であるから、菩提を全うしているんだよ。その通りのまま、手つかずのままでいいんだよ。」という意味です。

検証した時に「あ、悟りを得た。悟ったぞ。この状態は如何なることか。」と分析眼が生じる。
そこに思考が介入する。分析知でおのれをみる従来の見解が再び現れる。
ゆえにせっかく事実に安住していたにもかかわらず、波の静まった水面に思考のスプーンでかき混ぜるような思考の顧みをするからブレるのです。

同じように、困中又困。
困(困・疲れ・迷いの象徴)の中であっても、それは純粋無垢に迷っているから、迷いをいけないと非難する自己さえいなくなっている様子があるよ。そこをみてごらん、と道元禅師は説いて下さっているのです。
多くの人は、迷いはいけない、困はいけないと思う。
疲れや迷いはいけないものでしょうか。
困る時は徹底して困れば良い。
そうすれば、困った自分に困ることが無くなる。
修行者は困った自分を責めるからいかんのでしょう。
こんなんじゃダメだ、と自分を卑下したり、責めることで、見が立つから法に安住していた自己を思考で蹴落すのです。

疲れたら疲れたということがあるばかりで、それがなにか悪いものではないさまがある。
ただ「困」という様子があるばかりなり。

そこに手脚を着けるは誰そ。
疲れは疲れであっても疲れということがあるだけで、それを忘じている時には大いに疲れ菩提なり。疲労菩提なるべし。

喫茶喫飯の時は、喫茶喫飯が成道。
その他に他事無し。
これをみている時にはただこれなるべし。
あなたの眼によそ事が生じないでしょう。
みえた通りになる。見た通りになってそれがそのまま完成。
要らぬ添え物をつけないからラクでしょう。

JG寺で提唱があったのかな?

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

またマニアックな一文を…

意味分からんって言われるかもしれませんが…

「困」は疲労困憊の困で、疲れること。「困中又困」は疲れた上にさらに疲れること。迷いの上にさらに迷う、苦の上にさらに苦を生ずることです。
菩薩は自未得度先度他です。仏になるべき因縁が熟してなお、六道を回らして衆生を救うわけです。疲れ抜いたテッペンからさらに疲れにドッポーーーン!するわけです。
ここでナルホドどんなに疲れても寝る間も惜しんで世のため人のため、滅私奉公しなさいと書いてあるのだなと読むのは世俗の読み方。そうではない。「大の一字を参究せよ。」

この一文は打眠の一文まで繋がっています。
土地草木牆壁瓦礫みなことごく我として眠り抜け。菩薩が、衆生を、救うのではない。菩薩も衆生もブチ抜いて救い抜く。そこに修証一等があり、威儀即仏法・作法是宗旨の菩薩行があるわけです。
人として生まれ打眠することに喜心を持ち、人として生きてまた人として生きる。そして打眠に繋がる因縁に老心をめぐらし、大心でもって十方三世をブチ抜いて皆ことごとく我として眠らせるのです。

そのブチ抜かれた大きな我が、慈悲であり智慧であり救いというもの 。だから打眠がそのまま独坐大雄峰。
昏夜寝息、当願衆生、休息諸行、心浄無穢。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

こんにちは。

 「家常」とは日常生活のことです。ごはんを食べて茶を飲んで、着物を着て、というあたりまえの生活。この日常生活こそが仏道修行である、という話を、この巻では様々な祖師がたの事例を使いながら説いています。
 ご質問の部分は、道元禅師の師である如浄禅師の「お腹がすいたらごはんを食べる、疲れたら寝る(私意訳)」といったようなお言葉を道元禅師が解説する一節です。

 ご質問の一節は、「疲れている上に疲れているという状態」となります。これだけでは意味が分かりづらいです。是非、前後の文章をよく読んでみてくださいね。文字面を追うだけじゃなくて、心で。体で。

 お腹がすいたら、体全体でお腹をすかせ、疲れたら体全体で疲れ、寝るときは体全体で眠りましょう。
 常にMAX100%で日常生活を送りたいものです。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

質問者からのお礼

大慈様
ご回答ありがとうございます。
仏教を勉強し始めてから、お坊さんは学問として仏教を論じる学者等とはまた違った理に従って仏教を理解し語っているように感じています。ですから、お坊さんである大慈様にお坊さんの目線から仏教について解説していただけるのはとてもありがたく、大変勉強になります。
親しみやすい解説をありがとうございました。

丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
「困中又困」とは、私たちが困ったり、疲れたり、迷ったりした場合に実在するのは、未だ何らの評価も付け加えられていないそれらの中に私たちがあるという状態のみであることを示すものである、という理解でよろしいでしょうか。
はい。お寺で提唱がありました。その際によく分からなかったところを質問させていただきました。

光輝様
ご回答ありがとうございます。
光輝様のアドバイスにしたがって、もう一度「家常」の巻の全体をじっくり読んでみたいと思います。
「一行三昧」という言葉を知ってからそれを実践しようとしているのですが、本当に難しいです。食事中や寝る前などに、いま行っていること以外のことを考えてしまうことがしょっちゅうあります。常にMAX100%で日常生活を送ることができるよう注意力を養っていきたいと思います。

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