死にたいと思うことは悪いことなんでしょうか
死にたいと思ってしまいます。
本当に思っているのかはさておき、辛くてたまらないことが重なると「早く死にたいな、早く解放されたいな」と考えてしまいます。
生きる=辛い・苦しい
死ぬ=生きることからの解放
という図式が自分の中にあります。
なので辛いことが沢山あると早く死にたいなーと思ってしまいます。
楽しいことももちろんあるのですが、ふとしたときに早く救われたいなと考えてしまいます。
死ぬときのことを想像するととても安心します。
でもこの事を話すと母に怒られてしまいましたが、何故怒られているのかわかりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
天上天下唯我独尊
【天上天下唯我独尊】
世界中で私はただひとりだから尊い、という意味です。
これは一応、お釈迦さんが誕生してすぐに七歩歩いて上と下に指をさして言ったセリフだということになっています。とはいえ、これは何もお釈迦さんが特別な存在で、それをアピールするために吐いたセリフではありません。じつは誰にでも当てはまる”いのちの事実”です。当然、あなたの存在もここに含まれます。
私の場合、ある日この事に気がついてからというもの、どんな酷い目に遭っても「死にたい」とか「どうせオレなんか」とか、ウソみたいにサッパリ思わなくなりましたけどね。
”生かされている”などという陳腐な能書きを垂れるつもりはありませんが、
私一人がここに生きている事実の背景を想う時、あまりにもダイナミックで無限に広がる繋がりを感じます。私は偉くもなければ有名でもなく、私ひとりくらいいなくても世の中はどうってことなく回るのかもしれませんが、やはりこの私も、お釈迦さんやキリストさんと変わらないくらいの尊いいのちであることを私は自覚します。だから粗末にはできません。
こうなったら最強です。とりあえず衣食住さえ成立しているのであれば、大抵の問題は「死にたい」を抜きで立ち向かえると思います。
良い悪いではない
>死にたいと思うことは悪いことなんでしょうか?
とのこと。
いきなりご質問の趣旨をぶった切って申し訳ないですが「良い・悪い」で考えるのをやめましょう。
とはいえ、いちおうご希望の形式にそうならば「悪いこと」ではないでしょう。死にたいと思うことも「気持ちや感情」の一つ。湧き上がってくる「気持ちや感情」は自分の力でそうしているわけでもないし、そういう感情が浮かんでくること自体が「悪いこと」なんて責められたら困ってしまいますね。
しかし浮かんできたその「気持ちや感情」を捕まえて、そこに自ら停滞するのか、それを手放してより現実的な対処を求めていくのか…その態度選択が問われているのだと思いますよ。
>死ぬときのことを想像するととても安心します。
とはあなたにとって確かにそうなのでしょう。しかしそれは一種の「癒し」であり、言うならば「安心していると思っているだけ」の状態なのではないでしょうか。
ひと時安心しても、現実の状況が何も変わっていなければまた辛くなるだけでしょう。そうするとまたそこに逃げ込むという現実逃避行為なのか、それとも「死にたい」と思うことで本当に安心できて辛い状況にある意味「死んだつもり」で力強く現実的に対処していける力となっているのか…。
どちらでしょうね。
良い悪いではなく、現実の課題に対して本当に有効な態度選択になっているかどうかでしょう。
「本当に死にたい」のか「本当は生きたい」のか。
あなたの本当の願いはどちらでしょう。きっとご自身でお気づきだとは思いますが。
あとはその本当の願いのために何が有効な態度選択なのか、誰かに言われた良い悪いではなく、ご自身の歩みにおいて確かめていきましょう。
死んでも楽にならないと思うのです。
生きている人は、一度は必ず死を迎えます。
だから、必ず死にます。焦らなくてもいつかはその時が来ますから、死については大丈夫です。
そして、誰でも死にたいと思う時はあります。だからそう考えも間違いではありません。
楽になりたいから死にたい。というのは、ちょっと違うかな。
楽になるのは、心、考え方次第なので、いくら死んでも楽にはならないと思います。
だって死というは、肉体が滅びるだけで、心、意識は何にも変化しないから、ず~とそのままでしょうね。
だから、死んでも楽にはならないです。それより、死んだら楽になるという考え方はしない方がいいのかと思います。
>でもこの事を話すと母に怒られてしまいましたが、何故怒られているのかわかりません。
お母さんもよく分からないと思います。それに可愛いわが子に、死んだら楽になるからとか、死について話をされれば、誰だって悲しみや恐怖、不安の方が先に浮かぶでの避けたい話題です。いつまでも元気で仲良く暮らせることを第一に考えるのは普通ですから、極論として死んだら楽になるなんて考えたくもないでしょうね。
あまり難しいことは言えませんが、そんな風に思いました。
図式を変えてみましょう
みらの様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
では、図式を変えてみましょう。
現状の「生きる=辛い・苦しい」を「生きる=確かに迷い苦しみの輪廻の中にあるものの、幸いにも人として生まれることができて、迷い苦しみを無くすための教えである仏法を学び修せられる有り難い境涯にある」
現状の「死ぬ=生きることからの解放」を「死んでも輪廻の原因となっている無明や煩悩、悪業を無くさないままであれば、結局は死んだとしても、また迷い苦しみの世界に生まれてしまうことになる」
として、真に救われるためには、仏法を学び修することが大切となります。
是非、これを機縁として仏教に本格的に取り組んで頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌