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「一生成仏」とはどういう意味ですか?

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有り難し有り難し 17

出釈迦寺の弘法大師(真魚)のことについて調べています。

以下伝説の内容です

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弘法大師が真魚(まお)呼ばれていた7歳の時、我拝師山に登り

「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい。この願いが叶うかどうか、お釈迦様の証をお示しください。もしもそれが叶わないなら、この身を諸仏に供養としてささげます。」
と願い、断崖絶壁から飛び降りました。

すると、紫色の雲が湧き、羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。

天女が真魚を飛び降りた場所に戻すのと同時に紫色の雲が湧き、釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。

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この
「釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。」
という意味がわかりません。

生きながらにして仏になったということですか?
空海さんは即身仏になる前から仏だったということでしょうか?

誰かわかりやすく教えて頂きたいです。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今という一瞬は今というひと時の成仏の相なり

わが身を先とせず、わが心を先とせず、自分自分という心を打ち捨てて、全自己をそこに投げ出すということ。人間は誰でももとより法の海の一滴水。
もよもと法界という法の海の一滴水、法の空の一片ですから、そこに自己の身心を投げ入れて、法の流れのそれにしたがいゆくとき、力をもいれずに心をも費やさずに誰であっても仏となれます。

紫雲は仏法の象徴、天女は人を仏に導く作用、法に導くはたらきの象徴とみてはいかがでしょう。私たちはいつでも、いまでも法という人間の見解を離れた天地の素晴らしい働きの衣に包まれているのです。
今埼玉では日が昇り暖かな暖かい日差しが私を包んでくれています。
これも天女の包み込みではないでしょうか。
そこに存在しているということ自体で私たちは沢山の恵みという天女の抱(いだ)き、法の衣の包まれているのです。
あらゆる生命はこの世に誕生して、やがて自我が芽生えて世界と自己とが認識・思考の上で分断されます。

ところが、元々別々ではなかった。衆生と仏とも別れていなかった。
ただ、自身の迷いのこころや分別の心がそれを隔てているだけなのです。

仏法を明らかにする上においてはそういうものも先とせずに一切を打ち捨てて道を求めれば童子であっても仏法を明らかにすることができるということでしょう。

子供が子供が法を悟る、仏法を明らかにするということはにわかには信じられることではないでしょうが、禅門においては井上貫道老師という方がおられますが、幼少のころから師の義衍老師の話を膝元で伺っておられて、義衍老師も子供にはこういう話は分からないだろうと思っておられたそうですが、ある時義衍老師が仏法について問いかけをするとちゃんと答えられたそうで、小さい子供でも仏法をちゃんとわかると驚かれたそうです。

亜樹子さんも、今、成仏の相を全うされているのです。
ただ、これはどういうことだろうか、どういう意味だろうかという「思索・思考」の追及が、自身の本来の成仏している様子に導いてくれないのです。
だから、そういう求め方を打ち捨てて、自分の思い方を優先せず、今の目前の真実に全自己を投げ入れて【まかせゆく】ところに自分の思考・思いかたが優先されていない世界が現れてこの身心がお釈迦様と同様にもとより成仏している(た)ことを自覚できるのです。それが一生成仏であり、即身是仏です。

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「授記」

亜樹子様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏となるためには、やはり、悟り・涅槃へと至るための因縁(原因と条件)に取り組んでからでなければ結果としての成仏はあり得ないことであります。

ですから、未だ十分な仏教修習をされていない幼少期においては、まだ仏であるとは言えないところとなります。

「釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。」 と言うのは、確かなる菩提心を発して、これからしっかりと仏道を歩むという堅固な決心をお釈迦様が認められて、ある意味においては、将来悟りを開けるであろうという「授記」を与えられたものであると解することができます。

「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい」というその決心の揺ぎ無さをお釈迦様がお認めになられたというところであり、それでも、決心だけで仏と成れるわけではなく、やはり、その後の仏道修行は当然に必要なものとなる次第であります。

「一生成仏」とは、もちろん、この一生における「即身成仏」ということでありますが、それも可能性のことであり、しっかりと密教修習に取り組めば、この一生での成仏もあり得るとされるものであり、授記によって、すなわち成仏というわけではないというところには、注意が必要ではないだろうかと存じます。

ですから、授記を受けても、修行に怠惰となれば、悟りも遅くなるのも当たり前のことになります。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

【 川口英俊様】
大変わかりやすく、「一生成仏」という言葉をかなり理解することができました。私は仏教を広めるブログを書いておりましたが、知識もまだまだなのでこのような専門用語がわからず、ネットで調べて見てもどれが正解なのか…と途方に暮れていたところこちらのサイトに出会いました。的確で素早いご回答に感謝いたします😌

【丹下覚元様】
見解や私へのお言葉までいただきありがとうございます。また紫雲が仏法の象徴など知らなかった知識まで得ることができ嬉しく思います。文章一つにしても色々な見方がある気がしてなんども読み返しました。全自己を「まかせゆく」ことは煩悩の塊のような私には非常に難しいと感じる反面、子供の頃はできていたのになと思いました。いつか、あるがままに自分を生きていけたらいいな。。
ご回答ありがとうございました😌

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