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「私」を構成するものについて

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有り難し有り難し 47

五蘊という言葉を聞いたことがあります。
これらの要素が「私」を構成しているものだとしても、これらを「私のもの」としてリンクさせる力はどこから来るのでしょうか?
例えば「私の思考」「私の感覚」「私の体」というように、なんでも個人的にしてしまう力です。
もちろん人間の発達した脳のせい、とも言えると思います。
では、脳に損傷を負ってしまった人や、痴呆が進んで自分のことがわからなくなってしまった人は、いわば悟りに近い状態ということ?
自分のことがわからない「自分」、が残るので、違うんじゃないかと思いますが、皆さまはどう捉えますでしょうか?

科学的なことはさっぱり分かりませんが、脳の仕組みとはまた別に「経験を個人的に所有する力」について、仏教の視点からご教授いただきたいです。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「煩悩障と所知障」について

有未様

五蘊は、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)で、それら五蘊が因縁(原因と条件)によって仮に集合していること(五蘊仮和合)によって私たちの存在は成り立っています。

しかし、五蘊のどれが一体、自分なのか、どこが自分なのかは、これであると指し示して言えるものはどこにもなく、「自分」とは実体として成り立っていない「空」なるものとなります。

「「私のもの」としてリンクさせる力」・・

私、あるいは私のものということは、「我執」のことになりますが、その我執の根本的な原因は、願誉浄史様も既におっしゃられていますように、「無明」となります。

簡単な例えとしては、無明を癌細胞として、癌細胞(無明)が色々と臓器の働きを痛めてしまい、様々な苦痛となる症状(煩悩)が出てしまうことになります。しかし、その根本となっている癌細胞を直接に手術(仏道修行)により、取り除ければ、様々な苦痛となる症状(煩悩)も出なくなります。しかし、その癌細胞(無明)をまた再発、増殖させてしまう原因も何とかしないことには、また癌に侵されてしまうことになってしまいます。例えば、悪い生活習慣(食生活や喫煙、ストレス等)などとなります。その癌細胞の原因となっている根本的な要因をも改善させること(更なる修行)で、もはや癌にならなくなり、安心して過ごせることになります。

この例えの場合、癌細胞を「煩悩障」とすれば、悪い生活習慣などの根本的な要因が「所知障」というものとなります。

「経験を個人的に所有する力」・・

経験、仏教的には、行いによる業・カルマとなりますが、心相続(心の連続体)上において、一応は所有するものと言えるのではないかと存じます。

しかし、この業・カルマも、様々な行いにおける業・カルマの複雑な因縁により相続していくものとして、実体としてあるものではなく、「縁起」にて成り立っている「空」なるものとなります。

痴呆症・認知症の方、あるいは赤ちゃんの状態は、「無分別」であり、それを「悟り」のような状態と言う見解は、拙生は全く支持しません。その場合はただ脳の働きに問題があるだけで、深いところの心相続上の問題としての煩悩障、所知障を断滅させない限りには、「悟り」と言える状態にはならないと考えております。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

煩悩の最終ボス「無明」

無明(むみょう)という煩悩があるから、自己の存在に執着してしまうのではないでしょうか。
脳が発達していない虫などにも煩悩はあり、生きようとします。
生きていたいという渇愛は下等生物にもあります。
ですから、脳が損傷したから悟った(煩悩が消えた)わけではないと思います。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

私のものがないと思えばいいのです

私のものなど何一つありゃしませんのです。(^<^)
これを見たら、(^<^)これが映る。
誰がやっているのでしょうか?(^<^)
それはあなたは❝わたし❞がやっていると思っているかもしれません。
その働きををとらえて❝私が❞という一瞬のチラつきラベルを貼っただけのことなのです。
❝認知❞的なもの。
今、洗濯機の音がしています。
この身に全身でシュゴゴゴゴ…と脱水の音が鳴っています。
私という人間が久我として認めたものが聞いている訳ではない。
みえてくれている。
聞こえてくれている。
そのように現われとしてある。
どちらものということなく。
それが実質、法相、諸法の実相です。
人間は分別地で、後からシールを貼るように、後から、後から、思いを貼っている。
あなたは、自分を認める自分が残っていると思っている。
確かに自分意識、観察意識が盛んに動いているからでしょう。
ですが、その働きもまた、無為、無我なのです。
「わたし」がやっている訳ではないのですから。
せいぜい、後から、あなたがそこに勝手に「これは私がやっている」「まだ我が残っている」という認識の仕方をしただけのことなのです。
そこに気づいてください。
わたし「の」が無くなります。
そうするとあなたの理想とする所に安住できるでしょう。
シュゴゴゴゴ… ←あ、まだ、洗濯機、動いてます。深夜の方が電気代やすいんで(笑)。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分を知りたいなら

世のため人のためにお働きなさい。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

川口さま
いつもありがとうございます。感謝いたします。
だんだんと私が勉強するべきワードが見えてきた感じがあります!
がん細胞の例えは非常にわかりやすかったです。
なんとなく、全体像からすると仏教は、救済の面からしてセラピーやカウンセリングに近いところがありますよね?
全然違うということであれば申し訳ございません。
この前お答えいただきたい不二一元論の思想も合わせて勉強したいと思いました。

願誉浄史さま
ご回答いただきありがとうございました。
虫などにも煩悩はあるのですね!
ちょっとまだ煩悩という理解が深まっていないかもしれないので、勉強させていただきます。
無明というのも初めて聞きました!

丹下さま
いつも素晴らしい回答をありがとうございます!
そうですね、その働きも無我である、とまさしくそれであります。

ははは!音は音として、聞く経験と分けることができませんね。
これは本当に腑に落ちたら認識が大きく変化しそうです。事象はもちろん何も変わらず、最初からあるがまま^_^

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