hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

悪口

回答数回答 4
有り難し有り難し 78

いい事をすればいい事が帰ってくる。
悪口を言うことは天につばをはくことだ。
と、よく言われていますが、
これはほんとうなのでしょうか?
私は悪口を言ってはいけないと理解していても
まわりにあわせちゃったり、ポロっと
ゆってしまったりしてしまいます。
どうしたら、人の悪口を言わなくなるんで
しょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を優位に立たせたいという欲なのだと分かるとやめられる

相手を悪しざまに言うのは、ひそかにその存在を恐れていたりするものでしょう。
認めたくないなら、認めたくなくても結構ですが、本当に本当に平気な人はそれでも心が動じない。
何故悪しざまに言うのか。
おそらく、どこかしら、気に食わんのでしょう。
ですが、その気に食わんというのも、自分にとって、です。
自分の保身のために悪口を言っていると思いませんか?
人間そのくらい自分がカワイイ、自分のことしかないのです。
相手のフィールドは相手のフィールド。
自分の土俵にわざわざ取り込まなくていいのです。
そっとしておいてみる。
気に入らん相手であっても、自由に泳がせるようになってみましょう。
イイ方法があります。
今度、気に入らん相手が自分の土俵にのぼってきてしまってもいいように、土俵に落とし穴を作っておきましょう。そして、穴の底をプールにするのです。
そこで相手を❝泳がせてみてください。❞
自分の土俵上にのぼらない相手は、あなたの相手にはならなくなるからです。うーん、深いぜ。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こうありたいと願う自分を前面に出しすぎ

ポロっと出てしまう悪口は、自分の弱さのあらわれともいえます。
周りの人に自分を強く見せようとしたり、弱い部分を隠そうとする行動だと考えられます。
ご自分「自我」をいったん引っ込めて、良い悪い、損得等の考えをやめましょう。
このままでいいのだ。このままですべて問題なく整っているのです。
ご自分を他人と合わせようとしたり、大きく見せようとする必要もないのです。
そうした気持ちが起きていることに気がつくことができれば、わざわざ、悪口を言わなくてもその前にとめることができるでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

巡ってきます

Americaさん、はじめまして。

良いことをすれば、有り難しが還ってきます。
悪口は、あなた以外の誰かを仲たがいさせる原因となります。Americaさんが意識していなくても、いつかは還ってきます。Americaさんには還ってきたことが分からないことが多いものです。

自分でしたことは、消すことができません。
お気をつけなされませ。

{{count}}
有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

傷だらけの天使

10代は傷だらけの天使。

悪口いって傷付け傷付けられる。
ああ、痛い、痛いよー。

それが心の栄養。心も一緒に成長させよう。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

煩悩スッキリコラムまとめ