hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

私の般若心経の解釈はあっていますか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 37

仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。
そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。

私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。
空とは無であり無限であることだと思います。

人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。
本当はそんなものはありません。
さらに言えば自分というものさえありません。

とはいえ、世界が無なのではありません。
その逆に世界は無限です。
何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。
全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。

般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。
頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。

金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。
確かに空となったらそうなります。
他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。

総じて懐かしい感じがしました。
不思議なことに以前から知っていたような気がします。
人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。

私の般若心経の解釈はあっていますか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

空を握れば 空にそむく

こんにちは。三度の飯より般若心経。
…と言いたいところですが、やっぱり三度の飯が大好き「ごはんまだ?さっき食べたばっかりじゃないですか。えー?またなんか腹減ったしんどいょー(マカハンンヤハラミッタシンギョー)」丹下と言います。
般若心経は、大般若経のエスプレッソ。
空の教えだ、無の教えだ、私が無くなることだ、大切なのは空即是色だ、無我だ、無罣礙だ、ギャーテーギャーテーだ、と何か一言でまとめたくなるのが人間サマ。
あなたもそう言いたくなるのもよく分かります。
結論:一言でまとめようとしないことです。
曹洞宗なんかは「坐禅は只管打坐だ」「黙照禅だ」なんて一言でまとめちゃたアホゥ様が居ったせいで、いまだに世間から誤解を受けて内部まで大変なことになっています。別に道元禅師は「ただ坐れ」なんてカラッポなことは言ってなくて「只管に打坐して身心脱落(悟り)する事を得よ」と言ってるのにカラツポ学者が勝手にトリミングして小さいものにしてしまわれ結果的に死に坐禅になりつつあった。そういうことってあるものです。
無限にちりばめれられた、教えはもちろんどれも大切です。
〇生きた智慧
   と
〇アタマの知識
とは別物であることを抑えておくと良いと思います。
世の中には般若心経の解説本はありすぎて富士山の高さくらいになると思います。
ですが、それを読んで知識化することや解釈することも結構なのですが、大切なのはそれで本当に生老病死から救われたカイナ、というところなのです。
素晴らしい教えだ、素晴らしい智慧だ、読んで学ぼう。全てを捨てて、読破した。
読み終えるあとチョットのところで、
「あなたご飯デスヨ」
「うるさーい邪魔するなー(怒)」では家庭も悪い意味での空、無、虚になりますわいの。
空に随えば空に背く という教えがあります(証道歌)。
空も握れば、空にとらわれる。
文字上のギャーテーギャーテーではない、ギャーテーギャーテーを見つけてみてください。
そうすれば生きた般若心経がスッポリおさまります。
ある参禅者が山岡鉄舟にお経の講義を願い出た。
鉄舟はその者をつれて剣の道場へ連れて稽古の様子を見せた。
「これがわしの講義だ 分かったか? お前さんは文字の中にばかり真実があると思っているからいかん」

{{count}}
有り難し
おきもち

大切なことはそうした捉えを、学びで終わらさないこと

般若心経だけでなく、仏教を学問として学んでいたら、そこに救いはありません。
必ず実践し、本当にそうだということを自ら体験しなくてはならないのです。あなた自身が修行をし、般若心経で学んだことが本当に当たっているのかどうかを検証していくことです。
そのためにも自分自身をよく理解し、知ること。これは知識としてではなく、実体験として知るのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
このお坊さんを応援する

「空」について

会った人様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

これまで般若心経につきましては、下記の各問いにても扱わせて頂いて参りました。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

般若心経は、誠にその名の通り、「般若波羅蜜」の心髄を説く智慧の御経となります。

「「全ては空である。」です。空とは無であり無限であることだと思います。」・・

まず、全ては「空」であるというのは、確かにその通りです。

但し、その「空」も「空」であるというところとなります。その理解が難しいところになりますが、是非、これからも関心を強く持って頂きまして、学びを進められて下さいませ。

そして、次に、「空」とは、「虚無・絶無」の「無」ではなくて、あくまでも「実体・自性・自相」による成立では無いという意味となります。

また、「空」とは、「無であり無限である」ということでは、「無であり無限である」というところに矛盾を内包してしまうことになってしまいます。

「無」はあくまでも「無」であって、本来、「無」からは何も「有る」余地はないはずであって、「無」では、この世の現象・事象のことを何も説明できなくなってしまいます。

ですので、「空」は、何も無いという「無」ではないというものとなります。

「無限」というのは、何が無限なのかという主語の問題にもなりますが、例えば、この宇宙・世界について、有限か、無限かという議論は、「無記」として、あまり議論するに益のないものとして退けられるものとなります。

また、「無限」を、永久永遠に変わらない、実体としての何らかのモノ・コトを想定するとなっても、そのようなモノ・コトは存在しないということとなります。

是非、般若心経にも色々と解釈はございますが、上記のことも少しなりにもご理解へ向けましてご参考にして頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

呪文を使った瞑想と、瞑想を邪魔する雑念(空)

静かに目をつむり、「ぎゃーていぎゃーてい…」の呪文を心の中で念じてみましょう。
そのとき、「ぎゃーていぎゃーてい」への集中を邪魔するようにさまざまな雑念や妄想が、次々と浮かんできます。
浮かんでは消えてゆきます。
すべては夢・幻みたい、つまり空です。
頭で考えられたものはすべて、「ぎゃーていぎゃーてい」を邪魔するゴミ。
「ぎゃーていぎゃーてい」に集中しようとするあなたにとっては、すべて執着に値しないもの、空虚な幻、なのです。
さて、日常生活に戻ってみましょう。
日常生活では、「ぎゃーていぎゃーてい」の代わりに、例えば歯磨きをする時があります。
そのときは、歯磨き以外の雑念は、ぎゃーていを邪魔するゴミと同じで、ゴミなのです。
修行者にとって、生きることは、その場その場の「ぎゃーてい」を丁寧にこなし、「ぎゃーてい」を邪魔する雑念を、「空だ、執着に値しない」と、捨てて捨てて捨てまくることなのかも知れませんね。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

邦元様
有難うございます。
仰る通りです。
やらないと意味はないです。
日々仏教を精進しようと思います。

丹下 覚元様
智慧を授けていただきありがとうございます。
丹下 覚元様のおっしゃる通りで、般若心経を文字ばかりで解釈しようとすると真理から離れてしまいますね。
今回私は赤子に戻る(赤子の時のことを覚えています)ことにより心で般若心経をとらえました。
だけどこれは、きっかけにすぎません。
丹下 覚元様が見抜かれたように、私は学問好きな故に頭で考えてしまう恐れがあります。
実は般若心経を読んだ際にカントの純粋理性批判と似ているなと一瞬思ったり、
金剛般若心経を読んだ際に論理学で分析しかけて「こりゃいかん」と慌てて頭をストップしました。
自分を強く戒め「ギャーテーギャーテー」と唱えようと思います。
そして、心で仏教の智識を学び実践し続けようと思いました。

願誉浄史様
応用技を教えていただきありがとうございます。
歯磨きといった日常の動作まで応用されるとは凄いですね。
以前教えて頂いた「般若心経は間違い?」と宝彩有菜氏の「気楽にサトル生き方」を読みました。
上部仏教の偉いお方であるアルボムッレ様が、論理学や仏教の知識を駆使されている点に驚きました。
赤子に戻って読んでいたため、論理的に正しい指摘だけどちょっと頭でっかちのような気がしました。
きっと、頭で読んでいたら私もそう思うでしょう。
それも般若心経の読み方の一つ、仏教の一面なんだと思って大変おどきました。
豊かな仏教を多面的に見るのは凄い修行になります。

このhasunohaを知ってたった1週間しかたっていませんが、智慧を持つ回答僧の皆様に導いて頂き人間として成長できたと思います。
その感動は初めて歩いた時の感動と似ています。
私の仏道はまだ始まったばかり。
仏道において私は赤子です。
今後もよろしくお願いいたします。

川口 英俊様
意義深い問いを頂き深く感謝しております。
より深く学ぶためのお言葉だと思ったので再度真剣に考えました。

「空も空」について考えてみました。
空は実体がない事を表しているので、「空」という言葉も概念もないという意味でしょうか?
調べてみると、空という言葉は本来言葉で表すものではないそうですね。
そうなると、空というものも空となります。

無=∞についてなのですが零の概念を参考にしています。
数学的にn÷0=∞となっております。
仏教として考えるならば、私という自我も全ての現象も無ならば、私=全概念=∞となると思いました。

言葉にするために一応理論として書きましたが、本当のところは観音菩薩様にあった私の印象論です。
あの圧倒的な存在感を感じると、人間の能力では無限としか表しようがないと感じました。

世界が無限か有限かについては、理性的に述べると私も無記だと思っています。
哲学者のカントによると純粋理性では判断できないそうです。
カントが言ったのは18世紀ごろです。

はるか昔から見抜かれていたお釈迦様は本当に素晴らしいです。
それに般若心経の奥深さを改めて感じました。
修行を行い言葉を超えたより深い理解に達するべく精進いたします。

「般若心経」問答一覧

般若心経(2)

 「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」   これが第二のキーフレーズです。  「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。  横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。  従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。  「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。  ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。  では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。  「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。  「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。  同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。    「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界  乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」  「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。  以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。  明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

般若心経(1)

 今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。  「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。  次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。  「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。  「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。  「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。  色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。  定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。  「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。  e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。  「受想行識亦復如是」  「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

無と空について

複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

般若心経を学びたい

はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?

有り難し有り難し 45
回答数回答 3

お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

有り難し有り難し 55
回答数回答 4

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ