私の般若心経の解釈はあっていますか?
仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。
そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。
私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。
空とは無であり無限であることだと思います。
人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。
本当はそんなものはありません。
さらに言えば自分というものさえありません。
とはいえ、世界が無なのではありません。
その逆に世界は無限です。
何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。
全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。
般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。
頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。
金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。
確かに空となったらそうなります。
他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。
総じて懐かしい感じがしました。
不思議なことに以前から知っていたような気がします。
人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。
私の般若心経の解釈はあっていますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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空を握れば 空にそむく
こんにちは。三度の飯より般若心経。
…と言いたいところですが、やっぱり三度の飯が大好き「ごはんまだ?さっき食べたばっかりじゃないですか。えー?またなんか腹減ったしんどいょー(マカハンンヤハラミッタシンギョー)」丹下と言います。
般若心経は、大般若経のエスプレッソ。
空の教えだ、無の教えだ、私が無くなることだ、大切なのは空即是色だ、無我だ、無罣礙だ、ギャーテーギャーテーだ、と何か一言でまとめたくなるのが人間サマ。
あなたもそう言いたくなるのもよく分かります。
結論:一言でまとめようとしないことです。
曹洞宗なんかは「坐禅は只管打坐だ」「黙照禅だ」なんて一言でまとめちゃたアホゥ様が居ったせいで、いまだに世間から誤解を受けて内部まで大変なことになっています。別に道元禅師は「ただ坐れ」なんてカラッポなことは言ってなくて「只管に打坐して身心脱落(悟り)する事を得よ」と言ってるのにカラツポ学者が勝手にトリミングして小さいものにしてしまわれ結果的に死に坐禅になりつつあった。そういうことってあるものです。
無限にちりばめれられた、教えはもちろんどれも大切です。
〇生きた智慧
と
〇アタマの知識
とは別物であることを抑えておくと良いと思います。
世の中には般若心経の解説本はありすぎて富士山の高さくらいになると思います。
ですが、それを読んで知識化することや解釈することも結構なのですが、大切なのはそれで本当に生老病死から救われたカイナ、というところなのです。
素晴らしい教えだ、素晴らしい智慧だ、読んで学ぼう。全てを捨てて、読破した。
読み終えるあとチョットのところで、
「あなたご飯デスヨ」
「うるさーい邪魔するなー(怒)」では家庭も悪い意味での空、無、虚になりますわいの。
空に随えば空に背く という教えがあります(証道歌)。
空も握れば、空にとらわれる。
文字上のギャーテーギャーテーではない、ギャーテーギャーテーを見つけてみてください。
そうすれば生きた般若心経がスッポリおさまります。
ある参禅者が山岡鉄舟にお経の講義を願い出た。
鉄舟はその者をつれて剣の道場へ連れて稽古の様子を見せた。
「これがわしの講義だ 分かったか? お前さんは文字の中にばかり真実があると思っているからいかん」
大切なことはそうした捉えを、学びで終わらさないこと
般若心経だけでなく、仏教を学問として学んでいたら、そこに救いはありません。
必ず実践し、本当にそうだということを自ら体験しなくてはならないのです。あなた自身が修行をし、般若心経で学んだことが本当に当たっているのかどうかを検証していくことです。
そのためにも自分自身をよく理解し、知ること。これは知識としてではなく、実体験として知るのです。
「空」について
会った人様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
これまで般若心経につきましては、下記の各問いにても扱わせて頂いて参りました。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経
般若心経は、誠にその名の通り、「般若波羅蜜」の心髄を説く智慧の御経となります。
「「全ては空である。」です。空とは無であり無限であることだと思います。」・・
まず、全ては「空」であるというのは、確かにその通りです。
但し、その「空」も「空」であるというところとなります。その理解が難しいところになりますが、是非、これからも関心を強く持って頂きまして、学びを進められて下さいませ。
そして、次に、「空」とは、「虚無・絶無」の「無」ではなくて、あくまでも「実体・自性・自相」による成立では無いという意味となります。
また、「空」とは、「無であり無限である」ということでは、「無であり無限である」というところに矛盾を内包してしまうことになってしまいます。
「無」はあくまでも「無」であって、本来、「無」からは何も「有る」余地はないはずであって、「無」では、この世の現象・事象のことを何も説明できなくなってしまいます。
ですので、「空」は、何も無いという「無」ではないというものとなります。
「無限」というのは、何が無限なのかという主語の問題にもなりますが、例えば、この宇宙・世界について、有限か、無限かという議論は、「無記」として、あまり議論するに益のないものとして退けられるものとなります。
また、「無限」を、永久永遠に変わらない、実体としての何らかのモノ・コトを想定するとなっても、そのようなモノ・コトは存在しないということとなります。
是非、般若心経にも色々と解釈はございますが、上記のことも少しなりにもご理解へ向けましてご参考にして頂けましたら幸いでございます。
川口英俊 合掌
呪文を使った瞑想と、瞑想を邪魔する雑念(空)
静かに目をつむり、「ぎゃーていぎゃーてい…」の呪文を心の中で念じてみましょう。
そのとき、「ぎゃーていぎゃーてい」への集中を邪魔するようにさまざまな雑念や妄想が、次々と浮かんできます。
浮かんでは消えてゆきます。
すべては夢・幻みたい、つまり空です。
頭で考えられたものはすべて、「ぎゃーていぎゃーてい」を邪魔するゴミ。
「ぎゃーていぎゃーてい」に集中しようとするあなたにとっては、すべて執着に値しないもの、空虚な幻、なのです。
さて、日常生活に戻ってみましょう。
日常生活では、「ぎゃーていぎゃーてい」の代わりに、例えば歯磨きをする時があります。
そのときは、歯磨き以外の雑念は、ぎゃーていを邪魔するゴミと同じで、ゴミなのです。
修行者にとって、生きることは、その場その場の「ぎゃーてい」を丁寧にこなし、「ぎゃーてい」を邪魔する雑念を、「空だ、執着に値しない」と、捨てて捨てて捨てまくることなのかも知れませんね。
質問者からのお礼
邦元様
有難うございます。
仰る通りです。
やらないと意味はないです。
日々仏教を精進しようと思います。
丹下 覚元様
智慧を授けていただきありがとうございます。
丹下 覚元様のおっしゃる通りで、般若心経を文字ばかりで解釈しようとすると真理から離れてしまいますね。
今回私は赤子に戻る(赤子の時のことを覚えています)ことにより心で般若心経をとらえました。
だけどこれは、きっかけにすぎません。
丹下 覚元様が見抜かれたように、私は学問好きな故に頭で考えてしまう恐れがあります。
実は般若心経を読んだ際にカントの純粋理性批判と似ているなと一瞬思ったり、
金剛般若心経を読んだ際に論理学で分析しかけて「こりゃいかん」と慌てて頭をストップしました。
自分を強く戒め「ギャーテーギャーテー」と唱えようと思います。
そして、心で仏教の智識を学び実践し続けようと思いました。
願誉浄史様
応用技を教えていただきありがとうございます。
歯磨きといった日常の動作まで応用されるとは凄いですね。
以前教えて頂いた「般若心経は間違い?」と宝彩有菜氏の「気楽にサトル生き方」を読みました。
上部仏教の偉いお方であるアルボムッレ様が、論理学や仏教の知識を駆使されている点に驚きました。
赤子に戻って読んでいたため、論理的に正しい指摘だけどちょっと頭でっかちのような気がしました。
きっと、頭で読んでいたら私もそう思うでしょう。
それも般若心経の読み方の一つ、仏教の一面なんだと思って大変おどきました。
豊かな仏教を多面的に見るのは凄い修行になります。
このhasunohaを知ってたった1週間しかたっていませんが、智慧を持つ回答僧の皆様に導いて頂き人間として成長できたと思います。
その感動は初めて歩いた時の感動と似ています。
私の仏道はまだ始まったばかり。
仏道において私は赤子です。
今後もよろしくお願いいたします。
川口 英俊様
意義深い問いを頂き深く感謝しております。
より深く学ぶためのお言葉だと思ったので再度真剣に考えました。
「空も空」について考えてみました。
空は実体がない事を表しているので、「空」という言葉も概念もないという意味でしょうか?
調べてみると、空という言葉は本来言葉で表すものではないそうですね。
そうなると、空というものも空となります。
無=∞についてなのですが零の概念を参考にしています。
数学的にn÷0=∞となっております。
仏教として考えるならば、私という自我も全ての現象も無ならば、私=全概念=∞となると思いました。
言葉にするために一応理論として書きましたが、本当のところは観音菩薩様にあった私の印象論です。
あの圧倒的な存在感を感じると、人間の能力では無限としか表しようがないと感じました。
世界が無限か有限かについては、理性的に述べると私も無記だと思っています。
哲学者のカントによると純粋理性では判断できないそうです。
カントが言ったのは18世紀ごろです。
はるか昔から見抜かれていたお釈迦様は本当に素晴らしいです。
それに般若心経の奥深さを改めて感じました。
修行を行い言葉を超えたより深い理解に達するべく精進いたします。