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私の般若心経の解釈はあっていますか?

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仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。
そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。

私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。
空とは無であり無限であることだと思います。

人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。
本当はそんなものはありません。
さらに言えば自分というものさえありません。

とはいえ、世界が無なのではありません。
その逆に世界は無限です。
何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。
全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。

般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。
頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。

金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。
確かに空となったらそうなります。
他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。

総じて懐かしい感じがしました。
不思議なことに以前から知っていたような気がします。
人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。

私の般若心経の解釈はあっていますか?

2015年12月16日 0:27

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

空を握れば 空にそむく

こんにちは。三度の飯より般若心経。
…と言いたいところですが、やっぱり三度の飯が大好き「ごはんまだ?さっき食べたばっかりじゃないですか。えー?またなんか腹減ったしんどいょー(マカハンンヤハラミッタシンギョー)」丹下と言います。
般若心経は、大般若経のエスプレッソ。
空の教えだ、無の教えだ、私が無くなることだ、大切なのは空即是色だ、無我だ、無罣礙だ、ギャーテーギャーテーだ、と何か一言でまとめたくなるのが人間サマ。
あなたもそう言いたくなるのもよく分かります。
結論:一言でまとめようとしないことです。
曹洞宗なんかは「坐禅は只管打坐だ」「黙照禅だ」なんて一言でまとめちゃたアホゥ様が居ったせいで、いまだに世間から誤解を受けて内部まで大変なことになっています。別に道元禅師は「ただ坐れ」なんてカラッポなことは言ってなくて「只管に打坐して身心脱落(悟り)する事を得よ」と言ってるのにカラツポ学者が勝手にトリミングして小さいものにしてしまわれ結果的に死に坐禅になりつつあった。そういうことってあるものです。
無限にちりばめれられた、教えはもちろんどれも大切です。
〇生きた智慧
   と
〇アタマの知識
とは別物であることを抑えておくと良いと思います。
世の中には般若心経の解説本はありすぎて富士山の高さくらいになると思います。
ですが、それを読んで知識化することや解釈することも結構なのですが、大切なのはそれで本当に生老病死から救われたカイナ、というところなのです。
素晴らしい教えだ、素晴らしい智慧だ、読んで学ぼう。全てを捨てて、読破した。
読み終えるあとチョットのところで、
「あなたご飯デスヨ」
「うるさーい邪魔するなー(怒)」では家庭も悪い意味での空、無、虚になりますわいの。
空に随えば空に背く という教えがあります(証道歌)。
空も握れば、空にとらわれる。
文字上のギャーテーギャーテーではない、ギャーテーギャーテーを見つけてみてください。
そうすれば生きた般若心経がスッポリおさまります。
ある参禅者が山岡鉄舟にお経の講義を願い出た。
鉄舟はその者をつれて剣の道場へ連れて稽古の様子を見せた。
「これがわしの講義だ 分かったか? お前さんは文字の中にばかり真実があると思っているからいかん」

2015年12月18日 4:33
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

「空」について

会った人様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

これまで般若心経につきましては、下記の各問いにても扱わせて頂いて参りました。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

般若心経は、誠にその名の通り、「般若波羅蜜」の心髄を説く智慧の御経となります。

「「全ては空である。」です。空とは無であり無限であることだと思います。」・・

まず、全ては「空」であるというのは、確かにその通りです。

但し、その「空」も「空」であるというところとなります。その理解が難しいところになりますが、是非、これからも関心を強く持って頂きまして、学びを進められて下さいませ。

そして、次に、「空」とは、「虚無・絶無」の「無」ではなくて、あくまでも「実体・自性・自相」による成立では無いという意味となります。

また、「空」とは、「無であり無限である」ということでは、「無であり無限である」というところに矛盾を内包してしまうことになってしまいます。

「無」はあくまでも「無」であって、本来、「無」からは何も「有る」余地はないはずであって、「無」では、この世の現象・事象のことを何も説明できなくなってしまいます。

ですので、「空」は、何も無いという「無」ではないというものとなります。

「無限」というのは、何が無限なのかという主語の問題にもなりますが、例えば、この宇宙・世界について、有限か、無限かという議論は、「無記」として、あまり議論するに益のないものとして退けられるものとなります。

また、「無限」を、永久永遠に変わらない、実体としての何らかのモノ・コトを想定するとなっても、そのようなモノ・コトは存在しないということとなります。

是非、般若心経にも色々と解釈はございますが、上記のことも少しなりにもご理解へ向けましてご参考にして頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

2015年12月21日 16:41
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

大切なことはそうした捉えを、学びで終わらさないこと

般若心経だけでなく、仏教を学問として学んでいたら、そこに救いはありません。
必ず実践し、本当にそうだということを自ら体験しなくてはならないのです。あなた自身が修行をし、般若心経で学んだことが本当に当たっているのかどうかを検証していくことです。
そのためにも自分自身をよく理解し、知ること。これは知識としてではなく、実体験として知るのです。

2015年12月16日 19:45
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有り難し
おきもち

呪文を使った瞑想と、瞑想を邪魔する雑念(空)

静かに目をつむり、「ぎゃーていぎゃーてい…」の呪文を心の中で念じてみましょう。
そのとき、「ぎゃーていぎゃーてい」への集中を邪魔するようにさまざまな雑念や妄想が、次々と浮かんできます。
浮かんでは消えてゆきます。
すべては夢・幻みたい、つまり空です。
頭で考えられたものはすべて、「ぎゃーていぎゃーてい」を邪魔するゴミ。
「ぎゃーていぎゃーてい」に集中しようとするあなたにとっては、すべて執着に値しないもの、空虚な幻、なのです。
さて、日常生活に戻ってみましょう。
日常生活では、「ぎゃーていぎゃーてい」の代わりに、例えば歯磨きをする時があります。
そのときは、歯磨き以外の雑念は、ぎゃーていを邪魔するゴミと同じで、ゴミなのです。
修行者にとって、生きることは、その場その場の「ぎゃーてい」を丁寧にこなし、「ぎゃーてい」を邪魔する雑念を、「空だ、執着に値しない」と、捨てて捨てて捨てまくることなのかも知れませんね。

2015年12月18日 2:58
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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

邦元様
有難うございます。
仰る通りです。
やらないと意味はないです。
日々仏教を精進しようと思います。

丹下 覚元様
智慧を授けていただきありがとうございます。
丹下 覚元様のおっしゃる通りで、般若心経を文字ばかりで解釈しようとすると真理から離れてしまいますね。
今回私は赤子に戻る(赤子の時のことを覚えています)ことにより心で般若心経をとらえました。
だけどこれは、きっかけにすぎません。
丹下 覚元様が見抜かれたように、私は学問好きな故に頭で考えてしまう恐れがあります。
実は般若心経を読んだ際にカントの純粋理性批判と似ているなと一瞬思ったり、
金剛般若心経を読んだ際に論理学で分析しかけて「こりゃいかん」と慌てて頭をストップしました。
自分を強く戒め「ギャーテーギャーテー」と唱えようと思います。
そして、心で仏教の智識を学び実践し続けようと思いました。

願誉浄史様
応用技を教えていただきありがとうございます。
歯磨きといった日常の動作まで応用されるとは凄いですね。
以前教えて頂いた「般若心経は間違い?」と宝彩有菜氏の「気楽にサトル生き方」を読みました。
上部仏教の偉いお方であるアルボムッレ様が、論理学や仏教の知識を駆使されている点に驚きました。
赤子に戻って読んでいたため、論理的に正しい指摘だけどちょっと頭でっかちのような気がしました。
きっと、頭で読んでいたら私もそう思うでしょう。
それも般若心経の読み方の一つ、仏教の一面なんだと思って大変おどきました。
豊かな仏教を多面的に見るのは凄い修行になります。

このhasunohaを知ってたった1週間しかたっていませんが、智慧を持つ回答僧の皆様に導いて頂き人間として成長できたと思います。
その感動は初めて歩いた時の感動と似ています。
私の仏道はまだ始まったばかり。
仏道において私は赤子です。
今後もよろしくお願いいたします。

川口 英俊様
意義深い問いを頂き深く感謝しております。
より深く学ぶためのお言葉だと思ったので再度真剣に考えました。

「空も空」について考えてみました。
空は実体がない事を表しているので、「空」という言葉も概念もないという意味でしょうか?
調べてみると、空という言葉は本来言葉で表すものではないそうですね。
そうなると、空というものも空となります。

無=∞についてなのですが零の概念を参考にしています。
数学的にn÷0=∞となっております。
仏教として考えるならば、私という自我も全ての現象も無ならば、私=全概念=∞となると思いました。

言葉にするために一応理論として書きましたが、本当のところは観音菩薩様にあった私の印象論です。
あの圧倒的な存在感を感じると、人間の能力では無限としか表しようがないと感じました。

世界が無限か有限かについては、理性的に述べると私も無記だと思っています。
哲学者のカントによると純粋理性では判断できないそうです。
カントが言ったのは18世紀ごろです。

はるか昔から見抜かれていたお釈迦様は本当に素晴らしいです。
それに般若心経の奥深さを改めて感じました。
修行を行い言葉を超えたより深い理解に達するべく精進いたします。

「般若心経」問答一覧

学びと般若心経

私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

有り難し有り難し 66
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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 59
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浄土真宗の父の墓前で般若心経を唱えても良いでしょうか?

私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。

有り難し有り難し 41
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浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?

父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
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