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心が弱すぎ

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有り難し有り難し 28

私はとっても心が弱いです。
怒るとすぐに涙が出るし、
携帯の電波や調子が悪いだけで
涙がでてきそうになります。
ひと目を一番に気にしちゃうし、
病んでいるからなのでしょうか?

どうしたら心が強くなるか
教えてください。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

我が身可愛がりの心を捨てる

あなたは今、公園にいます。
宇宙・世界というとてつもなくデカい公園にいます。
公園はみんなのパークですから、自分の部屋とは違って好き勝手にはできません。
世の中の出来事の全てが、このとてつもなくデカい世界公園の自分にとって「いいことばかり」があるのではなく、世界中のみんなの為にあるのです。
この公園は無料なのですが、楽しく過ごす為のコツがあるのです。
それは誰のものでもない公園に住まわせて頂いているのですから、
「イイこと」は何でもないことから見出す事なのです。
全てが何でもないことなのです。
あなたの電話の電池が切れたのも何でもないこと。
電力会社の人にとってはあなたが充電してくれてそこで電気代が発生するので電機会社にとってはイイ事をしたのです。
あなたにとっては携帯電話の電池が切れたということは悲しいことだった。
【自分を傷つける事】であるかのように捉えたのです。
それは、この世界の公園を楽しく過ごす為の方法ではありません。
自分を中心に考えてしまったからです。ここに気づくと問題はすぐに解決します。
もともとただの事実でしょう。
それがただ、そう起った。
「あなたにとって」ということを度外視してみてみてください。
それは、ただの出来事。
「自分にとってを」捨てられたら心は強くなります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

頭が硬いと心も硬くなり、すぐにヒビが入る

怒りと悲しみは同じ系列の感情です。
怒りや悲しみで心が前に進めなくなると、涙が出ます。
「どうしたらいいかわからない」「どうにもならない」「どうにもできない」と追い詰められたとき、怒りや悲しみの涙が出ますね。
「まあ、別にいいや。」「○○がダメになったから□□で行けばいいや。」と、頭が次の道、他の選択肢を柔軟に見つけられるとき、心が追い詰められずにしなやかに他の選択肢に逃げられるときは、涙が出るほどの悲しみにはなりません。
あなたは、「ひと目を一番気にしちゃう」ということで、ひと目を気にしないならいくらでも他の方法を選べる場面でも、ひと目を気にして狭い選択肢に追い詰められて頭が硬くなってしまうのかもしれませんね。
ですから、自分で自分の枠を決め付けず、ひと目を気にしすぎず、色んな自分にさっと変身できればよいのです。
「携帯が使えないならこの時間に他のことをやろう」と、どんなすきまにも入っていく軟体動物みたいに、柔軟に生きればよいのです。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

気になる年頃

今に見てなさい、そのうちあなたも図太くなるから。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

涙が出てもいいじゃない

どんな出来事にも、自分勝手な判断を付け加えているのではないですか。

怒ることは悪いこと、
携帯の電波が悪いことは悪いこと、
泣くことは悪いこと、

本当にそうですか。ただの現象に過ぎないでしょう。いいも悪いもない。ただ起きただけ。

携帯の電波がない→心が弱いのではないか→きっとそうに違いない。
と自分勝手な判断をしていませんか?

事実は携帯の電波がないだけ。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ