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人からしてもらえるのは当たり前

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私は、どうやら心の奥底に「人から何かをしてもらえるのは当たり前」という意識がへばりついているようです。

世話してもらえるのは当たり前。
相談にのってもらえるのは当たり前。
助けてもらえるのは当たり前。 などなど

しかし、見えている意識では「してもらえるのは当たり前などということはない。ありがたいことなのだ。」と思っています。
ところがこれが厄介で、
何かを思い通りにしてもらえなかったりすると、心の奥底で生じる不満を、見えている意識の方で「思い通りにしてもらえないのは仕方ないのだ」と、表に出さずに中に封じ込めてしまう。

これが積もり積もってくると、人に対してプイッとなってしまったり、親しい人には酒に酔ったときなどに暴言となって出てしまうようです。

またこのような「してもらって当たり前」意識が、人に対して心から感謝することができなかったり、人を喜ばせようという気持ちが希薄になってしまっているようです。

このような心の奥底にあるものを変えたいと思っています。先述のように見えている意識では反対のことを思っています。
こんな状態で、心の奥底を変えるにはどのようにしたらよろしいのでしょうか。

まとまりのない文面になってしまいましたが、ご回答いただけましたら幸いです。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

手を合わせて「南無阿弥陀仏」

亀山純史と申します。
相手の行動に期待し、期待通りにならないと自分のことは棚に上げて、不満を感じるのは、あなただけではありません。私たちはいつも、「自分だけは正しい。」「自分はそんなことはしない。」とでも言いたげな言動をしてしまいがちではないでしょうか。

「他山の石」という故事成語がありますよね。この言葉の意味を調べてみると、「よその山から出た、つまらない石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の誤った言行。」となっています。私にはこの言葉の意味が、「よその山にはつまらない石があるが、自分の山にはそんな石はない、という思いが私たちにはあり、それが自分を苦しめている。」という風に聞こえてしまうのです。そして私たちは普段、「他山の石(他人の誤った言行)の中に、自分の石は含まれていない」と思っているのではないでしょうか。

では、このような思いからどうやったら離れることが出来るのでしょうか。残念ながら、このような思いから完全に離れることは、私たちにはできないと思います。それは、自己中心的であるということは、人間の本質であるからです。

しかし、私たちの自己中心的である心を包んで頂ける世界に、私たちは生きることができます。それが「南無阿弥陀仏」というお念仏です。腹が立ったときには、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏を称えれてはどうでしょうか。「南無阿弥陀仏」は「自己中のあなたを、この私(阿弥陀如来)に任せなさい。」という仏様からの呼びかけです。「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と称えても、自分が変わるわけではありません。自分のあり方(自己中心的であること)が明らかにされるだけです。でも、お念仏によって自己のあり方が明らかにされるところに、「この私(阿弥陀如来)が救う」という願い(本願)の世界が開かれ、そこに私たちは生きることができるのです。

以上が、私からの回答です。少しでもお役に立てれば幸いです。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

それでいいんじゃないですか。

人からしてもらって当たり前。
それは別に悪いことじゃないです。

赤ん坊のときはみんなそうでした。
赤ちゃんに対しては何かをやってあげるのは当たり前。
お腹が空いてるのか、眠いのか、辛いのか、
幼子に気を配って当たり前と思った大人がいたおかげで現在があります。

自分ができることはなんだろうか。
人の大事にしているものは何だろうか。
人によってこんな考え方があるのか。

感謝や喜ばせる前にその視点を心のどこかでもっていただければ、おのずと進む道は変わってくると思います。

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おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

自分が無くなる事

自分の頼りとしているものが「自分意識」しかないという哀しい枯渇した状態なのでしょう。
自分自分した自分意識しか振りかざすものがないから相手にも自分のルールを敷こうとするのです。それが怒りや不都合を生み出す。
自分のルールを敷くことが快感になっている人間をシャバいというのです。
そのシャバから抜け出す為には、より質のイイ心身の快楽に目覚める他ありません。
それは快感ではなく、安楽、安穏なるもの。仏教的には快楽(けらく)といいます。
自分が滅せられた心の静けさです。
そこを軸に世界を体感する時、すべてが「わたくし無きが故に」ただの汚れなき事実として感受されるのです。
この自分が自分のままでありながら、自分意識だけを無くして、生活することができます。
どんなにエゴエゴな人間でも、自分ルール以前の自分はある。
それに気づかないだけです。
元々、自分ルールも自分ルールを敷こうとすることも、最初からやっている訳ではないのです。
人間は最初の0歩目は自分ではありません。
最初の一歩目が自分自分であろうとすることが「人間」「自我的=エゴ的」なのです。
仏教的無我を生きるには、その最初の一歩目をオレオレしないままに処することです。
坐禅がおススメと言いたいところですが、今度MAXで眠い時に試してください。
眠気でアタマがガコンガコン揺れたらチャンスです。
眠気で自我自我した自分が消え失せる瞬間があります。
これは活用次第では坐禅よりも価値があります。
自分がゼロになった時、そこからそのまま自分なしに心を動かしてみることです。
自分がない自分に出会えます。
心の奥底を変えるとは、自分の無い自分に気づき、その自分を生きることです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

そういうキャラも世界にはいていい

基本的には、経験を積めば心を少しずつ変えていけるでしょう。
人間には三種類の経験があります。
身業(身体で行うこと)、口業(言語で行うこと)、意業(心で行うこと)。
意識だけでなく、身体や言葉で形にする(恩返し、お礼、他人への奉仕)修行が大切かもしれません。

私なんか、ひねくれてるから、他人から何かしてもらったら「借りができた」ような負担感を感じてしまいます。(遠慮とかいう美徳ではなく。)
しかし逆に、人に何かする場合には遠慮なく喜んでもらえればうれしく、恩返しなど気にされると申し訳なく思います。
誠に身勝手なものです。

何かしてもらったときに遠慮なく受け入れてくれる人は、世の中に必要なキャラだと思います。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ