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嬉しいような…複雑な気持ちです

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前回とても早くお返事をいただきまして、嬉しかったです

今回も相談させて頂きたいのですが。

当方、田舎のお寺のため近所の檀家様から、自分のところで作られたお野菜を頂く事が 多いのですが、そのおうちの方が ご高齢なのもあり、「悪いけど取りに来てんか?」とおっしゃるので、ありがたく頂戴しに行くんですが、最近、あらかじめこちらに御電話を頂き、そして取りに行くケースが増えました

その御電話も、住職夫妻がとると切られ また後日かかってきて、わたしか主人(副住職)が取れば用件をおっしゃられます

電話を切られる住職夫妻としては、疑問に思いますよね

ある方は「誰かがみんなで食べて欲しくて渡したイチゴが、若夫婦にまわってない」と聞いたから住職夫妻が出たら 切るんだとおっしゃってました

この微妙な 檀家さんとのやり取りは 良い方に考えてよいのでしょうか


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おっしゃる通りです

檀家さんに可愛がられている証拠です。
これはひとえに妻であるあなたの力なんですよ。
別にあなたに喜んでもらおうとか僕の人気取りのために言うのではありません。
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お寺の夫婦とは檀家さんに夫婦の有り様を示す責任があり、檀家さんもそれを見たいと思っています。
そこで妻の美徳がものをいうのです。
男の仕事は女の仕業です。
副住職がお坊さんらしくなれるのも
妻のはからい、あなたの功の賜。
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檀家さんは、そんなあなた方ご夫婦に好感を持たずにはいられなかったということだと思います。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

誤解無く 聴き 誤解無く つたえるべき

あなたの口からそれを住職夫妻に伝えればオヨメ様のお立場上、カドが立ちます。
頂いたものでも、住職夫妻に「これこれこういうわけだから」
ということで副住職さんを通して持って行ったらどうでしょう。
もともと誰のものでもありません。
もしくは頂くときに「住職にお渡ししておきます」と一声添えればよろしぃのでは?
その人が住職さんに渡したくないのであれば「いやいや、これはアンタたちにだよ。ヒソヒソ」と言われれば、あなた達で頂けばよいのです。
モノの生き私が誰から誰屁なのか不透明のままにせずにハッキリさせることで問題はなくなります。
実際の見えない所で、どういう真意であるのかがわからない中で、自分の中の思いやストーリーを膨らますことが問題の根源です。(^<^)それを無くすように心掛けてみてください。実物と真実の情報だけを相手にしていればよいとうことです。そうすれば頂いたキューリがたとえ曲がっていようがまっすぐな真実、泥がついていようが汚れなきキレイな真実。ズレがありません。そういうものの見方こそが仏教的モノの見方と言えましょう。無明、想念、個人的思惑を離れているからです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

とても大切にされているのですね

お気持ちはありがたく頂戴し、それ以上のことは何も考えなくていいでしょう。
檀家さんは布施行として貰ってもらいたいだけでしょうから、それでいいのです^_^

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

けんしょう様  ありがとうございます 当然ながら、私は新参者なので嫁いですぐは『おはよう』すら言ってもらえませんでした。 しかしこの数年で投稿のような関係を築くことができました。 良い意味でさらに檀家様方と 距離を縮められたらと思います。

丹下覚元様 ありがとうございます。 どちらかと言えば住職夫妻に渡したくない方の方が大半です。 『私らがあげても、そん時は言うても 数日たって顔見てもありがとうもいわない(※) いくら法要でありがたい話をされても、耳に入ってない』 ※京都の一部地域では 何かしていただいたら三回はお礼を言うのが 暗黙のマナーです
住職夫妻もまだまだ若いですので、うまいこと過ごせるように頑張ります。

邦元様 ありがとうございます。寺で挙式をさせて頂いた以上は、ご近所さんでもある檀家さん達とうまくやっていきたいですので、それまで寺族の誰も顔を出さなかった、寺の清掃日にも私だけでも出てよかったと思っています。檀家さんのお名前とお顔を覚えられる、絶好の機会ですのでつわり時を除いては 全て出ていました。寺庭はその時常に夢の中でしたが・・・

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