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死を意識せずにいられない。どうすれば前向きに生きれるのか。

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初めての質問失礼致します。
拙い文章で長文となってしまうかもしれませんが、回答いただければ幸いです。

私は自分の職場で一昨年父を看取りました。
精神障害をもった父で事故なのか自殺なのかわからない状態で病院に運ばれました。

亡くなってから1年くらいは何とか普通に生活していましたが、仕事の関係でカルテを読まなければならない機会があったのです。
そこに事故当時に私や家族がどういう状況だったのかということが詳細に書いてあり、事故当時のことが今起きているかのようなフラッシュバックが起こるようになってしまいました。

職場に居ること自体ストレスになってしまい、半年頑張りましたが、仕事をしてる時でも突然父のことを思い出して泣き出してしまったり、体調を崩してしまったので情けないですが退職を考えています。
また、、職場自体赤字で残業をしても残業代がつかないというブラックな状態になってしまったのでついていけないということも退職を考えざるを得ない理由の一つです。

私は今、現在心療内科にも通院していますが、医師にもうつ病すれすれの状態で頑張っている状態と言われました。
幸い、フラッシュバックをすることがなければ普通に生活できますが今の死の現場に居るのは非常に大きなストレスなので今の職場には長くいない方が良いとも言われています。

幸いにして2、3年くらいは余裕で暮らしていけるくらいのお金は手元にありますが、これからの人生をどう暮らしていけば良いのか途方に暮れています。何だか生きることに疲れてしまいました。

思い出すことと退職後、大したスキルももっていないのでこれからどうやって生活していこうかと不安でたまらなくなり、私も死んでこんな記憶を思い出さずに楽になりたい、といつも考えてしまいます。
残された家族のことを思うと非常にショックを受けると思うのでそれをせずに何とか生きている状態ですが死の誘惑は常にあり、毎日気力を使ってなんとかそれに打ち勝っています。

こんな私はどうしたらもう少し前向きにきちんと現実を見据えて適格な行動を取って生きていけるようになるでしょうか。
何かアドバイスいただければ嬉しく思います。
長文ですが、目をとおしていただきありがとうございました。感謝いたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

善し悪しの思いで自分を苦しめない

まず親父さんのことは親父さんの事。
あなたの中で混同してしまって自分の事のようになってしまっているでしょう。
そこを切り離しましょう。
「お父さんは、お父さんの人生だった。」
「私は私。でも、お父さんが居なくなって寂しい。」
この二つの事は別々である。
お父さんの死に関しては、それなりのお父さんの選択してきた行動によって、そうなった部分があるはずです。
それはあなたとは直接的には関係がありませんから、まず、そこの区別を明白にしてください。
フラッシュバックもトラウマも、それがポンと出てきた時は、それ自体は本当は悪い物じゃないです。
ただ、それをその後に、捕まえて「ああ、あれは悪かったダメだった」と自分を責めているでしょう。
そっちの後から自分が生み出している二次的な思いの方であなたは苦しんでいるのです。それを無くしてみませんか(^<^)
坐禅会に参加して頂きたいですが、北海道はさすがに遠すぎますので、いつでもご連絡ください。
08020659278 (匿名可能)
facebookメッセ―ジや「TOKYO禅」ページでも悩み相談できます。
私も昔死のうかと思ったことありましたが、もっとラクな生き方があるもんです。(^<^)
いつでもご相談ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

積み重ね

修行というのは毎日毎日同じことを繰り返すわけです。
同じことを繰り返す、これは辛い。辛いから修行になる。修行したらどうなるか、気付かないうちに自分が変わってる。
気付かないところがまた辛いけれど
修行を積めば間違いなく変化するのです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

見守っています

お父さんの事を思い出すのは仕方ないです。
それだけ思いが強かったから。

たとえ命が尽きて離ればなれになっても家族です。

人は命が尽きると阿弥陀仏に極楽浄土に連れて行って貰います。
お父さんは極楽浄土からあなた達を見守っています。

あなたがお父さんを思い出した時は、極楽浄土からお父さんがあなたを見つめている時かもしれません。
どうか、その時は辛い事よりも、楽しかった思い出を思い出してください。
お父さんもその方が喜びます。

ところで、そのブラックな仕事はやめましょう。
自死を考えるのも、その仕事でのストレスが原因でしょう。
お父さんも苦しむあなたを見て悲しみます。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

皆さま、ご回答ありがとうございました。お礼が遅れてしまい申し訳ありません。
編集したのですが、投稿する際にかなり読みにくい表示となってしまうようです。 

 >丹下 覚元様
おっしゃる通りで父のことを思い出した後に「あの時になぜきづかなかったのだろう…。」や「きついことを言ってしまったのだろう…。」、「でも精神病の人に合わせて生活して私達支える家族ももうあの時ぼろぼろだった・・・。」等と考えてしまい、自分で自分の考えに苦しんでしまう形です。
あった事実よりもその事実に対しての自分の考え方が一番自分を追いつめてしまっているのですね。
どうすればこの思いをうまく切り離せるのか良い方法がありましたら知りたいです。   

>常在様
変化…しているのでしょうか。何とか毎日暮らしておりますが、心が弱っているせいか実感できずに辛いと感じてしまいます。そういうものでしょうか。

>聖章様
本当に家族だからこそ…思いが強かったからこそ思い出してしまいます。
父は人間関係作りは下手でしたが、心根は優しい人だったのでこのような結果になってしまったのが本当に悲しいです。
きちんとした資格も持っている父だったので社会に溶け込んで欲しくて病気の時に父に向けてキツい言葉も言ってしまったのでそんな風に見て貰えているのかな…と感じます。
仕事の方は現在休職しており、医師との面談で今後を考えていく方針となっております。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ