「言葉」なしで見る
個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。
お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。
特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。
過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。
「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。
静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。
そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。
「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。
「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。
我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
その通りです
言葉は道具、どこまで行っても真実にはならない。本を読んでも解脱できません。知識や理解ではなく、生まれながらに備わっているありのままの様子に目を向けなさいとおっしゃっているのでしょう。
知識や余計な考えが浮かぶことで事実をくもらすものがあるから、本来人間の持ついつも感じている当たり前のことに目を向けるのです。悟りとは特別なことではなく、本当に今ここにあるようすがドンとあるだけで満足できるかどうかでしょう。
事実に触れた後の想いには騙されてはなりません。出会ったまんまでいられたら、そこに自他もなく、分別もない世界ということでしょう。
悟りについてはスマナサーラ長老の本が最適
スマナサーラ長老が、悟りについてもあちこちで書いておられます。
漢訳ではあまり明確ではありませんが、パーリ経典にははっきり説かれているものです。
私も、『悟りの四つのステージ』(サンガ)という本にまとめています。
ご参照ください。
質問者からのお礼
邦元先生
いつも的確なお答え拝読させていただいています。
先ほど散歩に出て”月”を見ると三日月でした。
”月”の真の姿は、いつでも真ん丸の満月なんだとまざまざと見ることができました。
満ち欠けして見えるのは、月の位置によって光が当たっている形によって見えているだけなんだ。
本来の我々の心も満ち欠けしない真ん丸のお月様。
勝手な位置(分別)で物事を見て、明るいとか暗いとか光の当たるとこだけを見て判断していると気づかされました。
合掌
藤本先生
本のご紹介ありがとうございます。
体験談もご紹介していただければ幸いです。
合掌